キャプラのメディア観と公衆観
きのう何の気なしにCATVを付けていたらF.キャプラ『群衆』が放送されていて、つい引き込まれた。キャプラといえば『スミス都へ行く』『素晴らしき哉、人生!』『或る夜の出来事』あたりがすぐに引き合いに出され、『群衆』は目立たない部類に入ると思う。わたしも長らく観たいと思っていたが近くのレンタル店になく、なかなか出会えなかった。だが、実際に観て驚いたのは、この作品が太平洋戦争勃発の1941年の製作であるにもかかわらず全く古びていないこと。そして、キャプラの問いは約70年後の今日もメディアとデモクラシーの難問であるということだ。
大恐慌で疲弊したアメリカの大都市が物語の舞台。地方新聞社の女性記者はじぶんがレイオフされるのを免れるため一計を案じ、捏造報道をおこなう。彼女が捏造した「事実」は、政治の無策に憤る男がクリスマスの夜に市庁舎の最上階から飛び降り自殺すると宣言した投書を新聞社に送ってきたということ。正義漢の名前はジョン・ドー。女性記者がジョン・ドーの話を書くたびに新聞は飛ぶように売れ、女性記者もスター記者となる。
彼女はジョン・ドーを演じる男性を雇い、各地を旅して演説をさせた。男は、体を壊してホームレスになっていた元野球選手。そして、ジョン・ドーが命をかけて訴えているのは、名もなきふつうの人々が隣人愛と助け合いの精神を取り戻すことで、荒廃した社会が再生できるという主張。この素朴な主張が新聞やラジオというマスメディアを通じて連日伝えられ、大衆運動が全米で盛り上がる。元野球選手の男も女性記者もそうした政治的理念に陶酔し、捏造されたジョン・ドーは庶民の尊敬を集め、メディアヒーローになる。そこへ、その人気を利用して大統領選に出馬しようとする政治家が現れる。
わたしたちは、熱しやすく冷めやすく、操られやすい無知・無教養な大衆(群衆)にデモクラシーを任せられるか。それとも、ある種のエリートや一部の社会階層にデモクラシーを任せるべきか。W.リップマンなら迷わずに後者を選びそうな二択を、キャプラは観る者=群衆に投げかける。キャプラ作品は、弱者救済や自助努力の精神が米国の徳であるかのようなプロット多く、観る者は感情に流されやすい。だがそれが、同調圧の高いマスヒステリックな社会運動や、消極的自由よりも積極的自由が過度に美化される傾向をもつ。だからこそ、ジョン・ドーの演説を盲信するのではなく、こうした作品をネタにデモクラシーについて議論を深めるべきなのだろう。
いずれにせよ、キャプラ作品でみられる演説の場面は感動的である。
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