「市民社会」がかつて含意したもの(備忘録)
わたしたちが少しのためらいもなく使う「市民社会」という言葉は、かつての日本では軽々に使われることはなかった。理由はマルクス主義の影響である。戦後の思想界をリードした丸山眞男や大塚久雄が活躍した時代、「市民社会」という言葉は civil societyではなく、 bürgerliche Gesellschaft (ブルジョアのゲゼルシャフト)の翻訳として受け止められるのが一般的で、この言葉を肯定的に使用することは資本主義を容認し、教条的なマルクス主義者からの批判を招くものであった。こうした日本の「市民社会」をめぐる議論について整理してくれている論文と出会った。
渡辺雅男(2009)「日本における市民社会論の系譜」『一橋社会科学』通号6,pp.49-72.
渡辺先生は日本の「市民社会論」の系譜が三つに分ける。一つの系譜は、丸山眞男、大塚久雄、そして松下圭一たちによる「近代主義の立場」である。それによれば、丸山も大塚も松下も、自ら積極的に「市民社会」という言葉を用いたり、理論化したりしたことはない。むしろ彼らは戦後の日本を「大衆社会」とみてきたが、今日のわたしたちがそれらを「市民社会論」として受け止めているのだという。
もう一つの系譜として渡辺先生は「マルクス主義の立場(林直道から平田清明へ)」を挙げる。渡辺先生は林直道の『史的唯物論と経済学』から以下の部分を引用し、きわめて典型的な「市民社会」否定論と断じる。
《市民社会》(die bürgerliche Gesellschaft, civil society, société civile)という用語は、一八世紀以来、用いられたブルジョア的慣用語であり、したがって、多義的なニュアンスをもった言葉である。マルクスも、最初この、慣用語として普及している言葉をつかいつつ、この言葉によっていいあらわされている客観的な現実を批判的に分析していったのである。……そして、マルクスの理論が深化・展開をとげるにつれて、この一般的な意味の方は、『社会の経済的構造』・『物質的生産関係』という明確な概念でよばれるようになり、《市民社会》という用語はほとんど『資本主義社会』をさす場合だけに使われる、――というように分化したと考えられる。したがって、初期の『物質的生活の諸関係』という意味での《市民社会》でないかぎり、マルクスが《市民社会》という場合は、ブルジョア社会=資本主義社会をさすのである。(林直道(1971)『史的唯物論と経済学』上巻, 大月書店, pp.228〜230頁)
これに対し渡辺先生は、平田清明の議論について大きな意義を見いだす。すなわち、「彼(平田)の市民社会論の最大の意義は、市民社会を歴史的な実存概念として復権しようとしたのではなく、あくまで論理的な方法概念として理解しようとしたところにある。ここに近代主義者たちの市民社会理解との決定的違い、彼らを超える意義がある」という。方法概念としての市民社会のもつインパクトがいかばかりのものであったのか、わたしのような低レベルの初学者にはよく分からないので、これ以上については省略したい。ちなみに、三つめの系譜は、「社会科学の立場(大塚金之助、高島善哉)」として紹介されており、いずれも一橋大学の経済学者で、高島は大塚の弟子筋にあたり、渡辺先生もこの系統にあるのかもしれない(想像)。
いずれにせよ、わたしたちが今日、「市民」や「市民社会」という言葉を使うとき、それらがかつて何を含意していたのかについて一応知っておくべきであるし、必要に応じて注釈を付けなければならないことはいうまでもない。
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コメント
市民社会とう言葉がかって意味していたこと
新知識を得ました。
有難うございました。
一般法則論のブログを読んでください。 一般法則論者
投稿: 一般法則論者 | 2011年2月23日 (水) 02時39分