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2011年2月28日 (月)

井上先生のメディア観(備忘録)

2011年2月22日の朝日新聞オピニオン欄に井上達夫先生が吠えて語っておられるのを、同居人から教えてもらった。マスメディアやジャーナリズムの問題を考えるとき、先生の視点・視座はいつもハっとさせられるし、大いに参考になる。

一票の格差の話をしよう 東京大教授・法哲学者 井上達夫さん(『朝日新聞』2011.2.22朝刊)

①~③は記事からの引用。

①「権力はこれまで所与のものとみなされてきた。自民党や大企業、官僚といった権力が既に与えられ、国民やメディアはそれをたたいていればよかった。現在は、国民が本当に改革力のある権力を作り出さなければならない時代です」
ジャーナリズムは権力による検閲に抗して表現の自由を獲得してきたことになっている。アクトン卿の金言「権力は腐敗する。絶対権力は絶対的に腐敗する(Power tends to corrupt, and absolute power corrupts absolutely.)」を地でいくように、ジャーナリストは、「権力」を批判をするジャーナリズムの存在がよりよき社会のために必要であるという大義を掲げてきたし、現在もそう信じている。なので、先生がいうように、これまでは「国民やメディアはそれをたたいていればよかった」のは、決してけなし言葉ではない。しかし、現在が「本当に改革力のある権力を作り出さなければならない」という時代になったといえるのかどうか、正直よく分からない。多くの主流マスメディアも、そのあたりがよく分からなくなったのではないか。政権が交代しても何も分からないのであれば、とりあえず、その変わらなさをも含めて、さしあたり従来通り政権与党を「たたいていれば」大きく的を外すことはないだろうというのが率直なところではないか。
②「重要なのは政治家や政党の活動に関する情報と、議会制民主主義についての的確な理解を有権者が持つこと。『ボーティング・フォー・ベター・ワールド』がほしいところですが、そこはメディアの仕事だと思います」
理想的にはそうだと思う。ただ、有権者に的確な理解を持たせるための教育の役目をマスメディアに担わせて良いのだろうか。メディアは国民の「教師役」「指導者役」ではなく、市民社会の「隣人」であるべきだというのがわたしの考えだ。特定の「隣人」が不特定多数の人々を、ともすれば変な方向に扇動してしまうことへの恐れが払拭できない。そこには、自由主義的なジャーナリズムが超えてはいけない一線、あるいは限界というものがある。なので、一足飛びに無理めの注文を引き受けるまえに、マスメディア側は、善き隣人としてのジャーナリズムがいかにあるべきか、という議論を深める必要があるのではないか。
③「大事なのは国民とメディアの態度。政治家をたたいて快哉を叫ぶ態度から、本当に改革力のある責任政党を育てる姿勢に転換すべきです」
たしかにその通りかもしれない。だがしかし、「快哉を叫ぶ態度」を表明している論説記者たちが、心の底から「快哉」を叫んでいるとは到底思えない。こういう言い方をしては失礼かもしれないが、論説の多くは(わたしにとっての井上先生の言葉と違って)つねに予想の範囲内にある。つまり、社説や論説はいわば〈批判的言説の自動出力装置〉のようで、どのようなパラメーターを投入しようとも、多くの場合、それらしい言説が作られるように感じられる。見方を変えれば、論説記者ほど「表現の自由」の幅が狭い記者もいないのではないか。ましてや「責任政党を育てる」ための意見を書く自由など期待できようはずもない。

ちょっと悲観的すぎるかもしれないが、そんなことを考えた。いずれにせよ、こういう議論が社内でできる環境を作るのがマスメディア・ジャーナリストの第一歩かもしれない。

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コメント

オトコとオンナ・コドモで考える林さんの議論の方がはるかに有効です。
国民あるいは市民とマスメディアの距離を正確に
測定することから始める必要がある。残念なことに
マスメディア側にその気はない。そこでとるべき手段は・・。

投稿: schmidt | 2011年2月28日 (月) 00時57分

schmidtさん、
こんばんは。師匠の新刊、ずいぶん好評のようでうれしい限りです。
ところで「国民あるいは市民とマスメディアの距離を正確に測定すること」って、簡単じゃないですよね。

投稿: 畑仲哲雄 | 2011年2月28日 (月) 01時40分

今朝の毎日新聞メディア欄「時流・底流」で上智大教授の橋場さんという方が、
『記者クラブ 情報カルテル』という本を翻訳されたことに加えて、
「本来なら一匹オオカミ的な独立・孤高の仕事をすべきジャーナリストに
なぜクラブが必要なのか」と書いていました。

>メディアは国民の「教師役」「指導者役」ではなく、市民社会の「隣人」であるべきだというのがわたしの考えだ。
>見方を変えれば、論説記者ほど「表現の自由」の幅が狭い記者もいないのではないか。

このご意見にまったく同感です。

投稿: pinoko | 2011年2月28日 (月) 07時42分

pinokoさん、
お久しぶりです(^^)
記者クラブの問題は困ったものです。まあ、わたしも記者クラブのソファで昼間から寝転んでいた時代がありますので、けっしてエラそうなことはいえません。。。
横道にそれるかもしれませんが「本来なら一匹オオカミ的な独立・孤高の仕事をすべき」という記者像も、橋場さんが理想とするマッチョなオヤジ・ジャーナリストのステレオタイプではないでしょうかね。

投稿: 畑仲哲雄 | 2011年2月28日 (月) 08時40分

>「国民あるいは市民とマスメディアの距離を正確に測定すること」って、簡単じゃないですよね。

 はい、まったくです。まず距離があることを認識できていないので・・。そこから始まります。林さんが指摘しているように「そのような再帰的考察にはたいへんな時間と労力が必要で、日々の忙しいマスメディアの作業を足踏みさせるような、効率性とは矛盾した行いとな」ります。
 全国紙には無理かもしれないので、地方紙ネットワークの中に、スモールなアクションチームを多様な形で作り、地域圏から事を起こすのがいいのではないかと思っています。林さんの議論を読んで、わたしたちがネットの世界で取り組んできたことは「社会変動」の一部であることをあらためて実感できました。
 わたしたちの取り組みをマスメディアジャーナリズムとの関係でどう意味づけるべきなのか、なぜわたしはハイパーローカルにこだわってきたかを、内部の人たちに説明するための強力な援軍を得た感じがしています。

投稿: schmidt | 2011年2月28日 (月) 10時26分

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