トクヴィルと新聞の分権(備忘録)
ほんの少し前まで「ブログ」と「革命」をセットで使っていた人もいたが、 facebook や twitter がチュニジアやエジプトで国家権力を揺るがし、Wikileaks が核兵器を保有する超大国を慌てさせる時代に入ってしまった。ある時点のテクノロジーが未来を規定すると考えた矢先に、次なる別のテクノロジーとその受容が過去の予測をどんどん上書きしてしまう。そんな時代に、少し古いけれどとても面白い論文に出遭った。
長谷川秀樹(1998)「トクヴィルのデモクラシー論における新聞の位置:ジャーナリズムの自由と分権 (トクヴィルと現代)」『立命館大学人文科学研究所紀要』 (72), 53-71.
Full Text "DEMOCRACY IN AMERICA" Alexis DeTocqueville
Democracy in America — Volume 1 by Alexis de Tocqueville - Project Gutenberg
Democracy in America — Volume 2 by Alexis de Tocqueville - Project Gutenberg
アメリカのデモクラシー (第1巻上) (岩波文庫)
アメリカのデモクラシー〈第1巻(下)〉 (岩波文庫)
フランス二月革命の日々―トクヴィル回想録 (岩波文庫)
アレクシス・ド・トクヴィル(Alexis de Tocqueville,1805~1859)は、フランスの政治家で、1830年代に北米大陸を旅し、"Democracy in America" を出版した。日本では松本礼二先生の訳で『アメリカのデモクラシー』(岩波文庫)があり、アメリカの政治やジャーナリズムを考える上で古典のひとつで、マルクスよりも再読の価値が高いように思うが、わたし自身、一字一句きっちり精読したわけでもなく、必要に迫られて斜め読みだけなので、今回、長谷川論文を読み、新ためていくつかの重要なポイントを教えてもらった。
「はじめに」で示される長谷川の問題意識は、「近代ヨーロッパの革命や合衆国の独立の原動力は、自由を求める新聞やジャーナリストの活動を抜きにしては語れない」という認識のもと、①「トクヴィルの新聞についての言説を現代ジャーナリズムの問題の枠組みで考察することは意義があ」るということと、②「トクヴィルの言説が現代ジャーナリズム論で引用されているが、「引用」にとどまっていて、トクヴィルの新聞論それ自体にはほとんど触れられていない」-の二点に集約されるだろう。後者はまさにその通りで、原著を読まずして、有名なフレーズをちゃっかり引用する例は、トクヴィルに限らずよく見かけることなので、自分も含めて戒めとしたい。
面白かったのは、第2節「トクヴィルにおける新聞論」が比較的大きなことを指していて、それは現代社会にも応用できるということだ。長谷川は以下のように述べる。
トクヴィルの「新聞の自由」は,必ずしも現代ジャーナリズム論での「表現の自由」に限定されていない。トクヴィルの言う「新聞の自由」とは、第一には,表現の内容についての自由ではなく,新聞や出版物を発行するという活動それ自体を指している。(長谷川 1989: 55)
もう一点、興味深いのは、トクヴィルが検閲に反対して表現の自由を称揚しつつも、暴力についても言及していることだ。
デモクラシーにおいては,政治権力や行政は一切、新聞の内容やジャーナリストの活動に対して法的,経済的な制限や規制を設けてはならないとトクヴィルは論じる。この箇所は,現代のジャーナリズムにも通じる。
しかし、トクヴィルは,新聞やメディアの自由な活動は絶対的に善であるとは見ていない。時々それらは悪を生み出すと,彼はジャーナリズムに対して,非常に冷静な見方をしていることに注意しなければならない。(長谷川 1989: 56)
こうしたトクヴィルのマスメディアやジャーナリズムに対するまなざしは、グローバルなメディア企業が資本市場で競い合い、マスメディアを介さずにソーシャルメディアでつながりあう今日、とても有益な視座を与えてくれる。ウィキリークスのある種の暴力性を、国家権力の暴力によって抑制るのではなく、別の道があるのではないかと考えさせられる。
また、論文の第四節「トクヴィルが見た合衆国の新聞の特徴」では、①ジャーナリズムの分権と②新聞とアソシアシオンの密接な関係-のを読み進めるうちに、井上達夫先生が講じていた〈新聞の隷従と放縦は両立しない。プレスを政府に隷従させることはよくないので、たくさんのプレスに競争させるような状態を作るべきである〉云々というトクヴィル・モデルを思い出さずにはいられない。長谷川は、新聞に「自由」を許す(検閲に反対)かわりに特定の企業に独占させないというトクヴィルのジャーナリズムの分権思想が、アソシエーション論を使って主張した行政権の分権と同じではないかと分析している。この部分、まったく同感。とてもよく分かった。
最後に、わたしが唸ってしまったのは、長谷川が記述したマトリックスである。ここ数年、わたしも似たようなことを考えていて、個人的に何枚も図を書いてきたのだが、10年以上前に立命の紀要にサラっと示されていたなんて、はっきり言ってメチャメチャ悔しい。なので、長谷川に最大限の敬意をこめて、あらためてJPG化させてもらう。この図をもとに、以下の論考の結論部分に記されたすばらしい見立てを引用しておきたい。
トクヴィルはデモクラシーに望ましい新聞の形態を象限Bに位置づけていたことが分かる。そして,1830年代の合衆国の新聞状況はBであったと言える。一方,独立前はDの近代革命期であった。ジャーナリストは表現の自由を勝ち取り,さらに小さい村でも新聞を発行し始めたことから,Bに移行したのである。
だが,現代の合衆国のメディアは,Bというよりもむしろ象限Aのマスクラシー,メディアクラシーにあるだろう。確かに,日本の全国紙のような新聞はないが,ワシントン・ポストやニューヨーク・タイムスなどの新聞が「われわれ合衆国民」という語りかけで,国民世論を形成していることに寄与しているし,テレビに関して言えば,幾つかの巨大ネットワークが国際市場をも独占しようとしている。メディアの肥大化はしようがない。日本やフランスなどの状況もAであると言えるだろう。(日仏は合衆国とやや異なり,「一県一紙制度」や「コンソルシオム制」で歴史的にDからCを経てAに達している。)
いずれにしても,現代のメディア状況は,デモクラシーから「程遠い」のである。
現代日本のマスメディア・ジャーナリズムの世界において、実務者たちは「ジャーナリズム」という言葉の使用を躊躇することが少なくない。ましてや自分たちの仕事が democracy や liberty, freedom といった概念とどう結びつくのかを考えたり語り合ったりする機会もめったにない。むしろ、こうした概念を扱うのは一部の学者であって、こういう話をする新聞記者はむしろ「浮いた」存在になり、冷笑されたり陰で嘲笑されたりする。「あんなのがジャーナリスト風を吹かせるのなら(デモクラシーを語るのなら)(言論の自由を説くのなら)、オレはそういう大それた言葉は使わないようにしよう」というような皮肉を、わたしはいたるところで聞いてきた。こういう意見も、「俺様は大ジャーナリストだ」と威張り散らすヤツも、ジャーナリズムには何ももたらしてくれない。
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