5月11日「ハイパーローカル」公開研究会やります
長い歴史を誇る伝統的な新聞社が、社員を大幅にレイオフしたり、支局を閉鎖したり、身売りをしたり、涙の休刊を決断したり…。ここ数年、米国新聞業界から聞こえてくる話題は暗いものが多かったように思います。しかし、「ハイパーローカル」という言葉で表されるメディア実践/ジャーナリズム活動があることを、日本のメディアは、さほど熱心に伝えてきたとは思えません。
ところで、「ハイパーローカル」という言葉は、それ単体ではかなり妙なな表現です。ただ、米国では「ハイパーローカル・サイト」「ハイパーローカル・ジャーナリズム」「ハイパーローカル・メディア」など、状況によって呼び分けられているようです。定義も定着していないようですし、話し手によって微妙に意味が違っているかもしれません。ただ、そのような場合も、徹底して地域にこだわっている、ということが含意されているようです。
「ハイパーローカル」などという言葉が普及するよりもはるか前から、地域密着型の新聞や放送番組は米国各地に存在しました。現在も多数存在しているはずです。日本でも地方紙・地域紙、地方放送局がその役割を担ってきたのではないでしょうか。しかし、そうしたメディアは、「ハイパーローカル」とは呼ばれていません。おそらく差異がどこかにあるのでしょう。
いずれにしても、日本のメディアの近未来を考える上で、とても示唆に富む報告が聞けるのではないかと思います。わたしも楽しみにしています。
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コメント
いい定義が見当たらないので、とりあえずハイパーテキストやハイパーリンクの「ハイパー」でいいことにしています。既存の「ローカル」概念を超え、メディアやプレイヤーを自在に組み合わせることで、新しい可能性を開く。ただしオンラインは必須。その点でも古い地域メディアやローカル概念は通用しないし、マスメディア概念に安住するメディアの流儀も厳しく批判されるべきです。
投稿: 佐藤和文 | 2011年5月 5日 (木) 21時06分
佐藤さん、
日本語の「超」が最適の訳ではなさそうですし、「ハイパーテキストやハイパーリンク」のように、片仮名でいくしかないかもしれませんね。
日本のメディア関係者で、米国のハイパー・ロカルのような現象を、わがこととして考えようとする人はどれくらいいるでしょうね。約20年前「シビック・ジャーナリズム」旋風が吹き荒れたときも、多くのマスメディア関係者は「他人事」と受け流していたようですし。。。
投稿: 畑仲哲雄 | 2011年5月 5日 (木) 22時25分
残念ながら日本の既存メディアには、自らが危機的状況に立ち至っているという認識がもともと乏しいんだと思います。だから思考停止状態に陥っている。今回の震災報道でも感じたことなんですが、もはや完璧なメディアはどこにも存在しません。われわれに可能なのは、せいぜいが、多様なメディアの組み合わせによる効果を具体的に示すことだけです。だから既存メディアが変わらないなら、無理して変える必要はありません。新しい組み合わせのアイデアと実践力がある人は、新しいメディアをつくればいい。その際、ハイパーローカルは、地方に基盤を持つメディアが自らに新しい可能性を付加する気があるなら、多いに使える方向であり、要素になりうるものです。しかし、自ら変わる必要を感じない人々には、なんの意味もないことです。
投稿: 佐藤和文 | 2011年5月 5日 (木) 23時04分
佐藤さん、
なるほど、「多様なメディアの組み合わせ」という視点は、とても重要に思います。
水越先生の『メディア・ビオトープ』で、わたしたちのメディア環境は「巨木」ばかりが目立ち、灌木や下草、蔓草にあたるような多様なメディアが自生しにくい構造であったと書かれていましたね。
「ハイパーローカル」は下草のような存在かもしれませんね。自分が巨木の一部にだけ属していると考えている人には、他の植物と「共生」することの意義が分からないかもしれないです。
いろんないみで、米国のハイパーローカル現象は、いろんな問題意識を喚起してくれます。
投稿: 畑仲哲雄 | 2011年5月 6日 (金) 12時28分