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2011年6月14日 (火)

大学のマスコミ論とエリート記者

The_revolt_of_the_elites大学院で研究を始めて以降、何人かのジャーナリストから言われたことを時おり思い出す。「おまえ、大学でどんな勉強やってるんだよ」と問われるたび、なるべく誠実に説明しようとしてきた。だが、ある種のジャーナリストは、わたしが取り組んでいることを「まもとな学問」と見なしていなかった。「ようするにマスコミ論だろ?そんなの学問か?」といった反応は、エリート意識の強い社員記者に顕著であったように思う。研究者に転じた元同僚に対し、「大学教授っていっても、しょせんマスコミ論のセンセイだしね」といった陰口も、幾度となく聞かされた。……これは、いったいどうしたものか。

Lasch, Christopher (1995=1997) The Revolt of the Elites and the Betrayal of Democracy, New York: W.W. Norton, (森下伸也訳『エリートの反逆―現代民主主義の病い』新曜社)

一般論として、実務者と研究者の間には通常、壁があるものだ。ただ、法律家は法律の研究を「ようするに法律の研究だろ?そんなの学問か?」とは言わない。医者も医学の研究を見下すことはない。だが、これがマスメディアやジャーナリズムやメディアやマス・コミュニケーションなどの実務者の場合、「そんなの学問か?」というような言葉が出てくるのはなぜか。とくにエリート意識が強い記者にそうした蔑視感が強いのは、いったいなぜなのか。

私見だが、「エリート記者」の多くが、政治や経済や国際の専門記者で、マスメディア世界の住人でありながら、取材対象の研究者とほぼ同等の地位でありたいと願いがちであるということが要因であるように思う。たとえば、国際記者の場合、特派員として海外に暮らし、その国と日本の意思決定者や官僚たちと接触する機会が多い。そこらの「三流学者」よりも情報量も人的資源も豊富になる。たまに講演で呼ばれて、国際関係の「なんちゃって」御意見番になる機会もある。ただ、彼・彼女らが自分を「なんちゃって」ではなく、国際関係論や国際政治の「ホンモノの専門家」と勘違いしてしまうこともあり、そうなってしまったら「マスコミ」などという自分の出自を隠蔽したくなる(もちろん専門家として通じるジャーナリストも少数ながら存在しますよ)。

かりに、私の邪推どおり、日本のマスメディア企業の「エリート」層が、取材対象の大人物やその背景となる学問に信頼を置き、尊敬し、同一化したくなる傾向と、ジャーナリズムやマスメディアの関連学問領域を軽蔑する傾向が同時に強くなるのことが確かめられたとしても、それを彼・彼女のエリート意識だけに帰責できるとも思わない。責任の一端はもちろん大学側にもあるし、そもそも、アカデミズムとジャーナリズムの不幸な関係は、なにもいま始まったものではなく、明治から長年かけて形成されてきたものだからだ。

私の知人(30代)はもともと新聞記者志望で、大学では新聞記者出身の教員に卒論指導を受けたが、「その先生ったら、口を開けば『いまのマスコミはダメだ』という高飛車な説教と、『おれが現役だったときは』という手柄話が多く、新聞記者になる気が失せました」と苦笑していた。その先生というのは、1960~80年代によくみられた「マスコミ批判」的なものを講じるのが上手な人で、現役時代は「若い政治家からいろんな相談を受け」「世界を股にかけた」というエリート記者であったそうだ。

多くの大学では、こうした教員の「マスコミ論」をな徐々に縮小し、人文・社会科学関係の知見をマスメディア研究とジャーナリズム研究に架橋していく方向にあるように見える。マスメディアとジャーナリズムをめぐる研究は、政治学や法学、社会学はもちろんのこと、統計学や社会心理学、哲学や現代思想、コンピューター科学などと部分的に重なり合う。遠回りのようだが、そうした多方面の「知」を動員できるようにしないと、構造的不況に苦しむ実務世界と同じく、学問としても先細りになってしまいかねない。

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コメント

根本的なところで言えば、
なぜ報道の自由があるのか、すら知らない。
それは絶対的な自由ではなく、反射的権利であることなど知りもしない。
表現の自由が認められるようになった経緯すら知らない。
そもそも、ご自身が「守る」はずの民主主義そのもを深く思考したことはない。

日本国憲法を、ちゃんと読んだことすらない。

多くの記者たち、テレビマンたちがいる。

と大仰に書き始めてみたが、

>たとえば、国際記者の場合、特派員として海外に暮らし、その国と
>日本の意思決定者や官僚たちと接触する機会が多い。
>そこらの「三流学者」よりも情報量も人的資源も豊富になる。

これが困っちゃうんですね。オレは知っている、と思ってる。誤解している。
政治部の記者も一緒なんですけれど、「オレはコレコレ、アレコレの有力者を知っている。つながりがある」で、全部が見通せる気になっているんだけれど、実は、そこで決定的にかけているものがあることに気がついていない。
普通の人たち、その国で生きている人たちの日常。
だから、「底辺が動き始めた」時、彼らは何が起きているのか的確な分析ができなくなる。先が、読めなくなる。

私みたいな、安ホテルに泊まって(時には民泊して)、日本食レストランなど夢のまた夢で、マチバの安食堂や市場で買い物して取材費を浮かせて、公共交通機関が安いから日常の足にする、ってゲリラ記者の方が、はるかに世情がわかっていたりする。
そういうゲリラもエライサンに取材できることもあるけれど、尋ねる言葉が違う。

>私の知人(30代)はもともと新聞記者志望で、大学では新聞記者出身
>の教員に卒論指導を受けたが、「その先生ったら、口を開けば
>『いまのマスコミはダメだ』という高飛車な説教と、『おれが現役だった
>ときは』という手柄話が多く、新聞記者になる気が失せました」と
>苦笑していた。

よくあるパターンですね。
大学で教える、ってことの意味を考えたこともない方々がずいぶんいましたし、今でもいる。

メディアが重層化し、マス・メディアのあり方が問われているいまこそ、ジャーナリズム「論」、マス・メディア「論」、メディア「論」が絶対に必要になっていると、思っています。

投稿: ママサン | 2011年7月10日 (日) 09時36分

>ママサンさん、

大手メディアで長年働き、もっともエラそうにしている大学に「入院」しているわたしが、
こういう記事を書くと「貴様こそ、なに様のつもりだ」と叱られそうです(汗)

ジャーナリストには〈半歩先を読む〉的な役割があり、そのためには
為政者・治者の視点に立って世界を見下ろす経験を余儀なくされますよね。

ただ、そうした高い地点から見下ろしたときの〈世界〉と、
地の目・虫の目から見あげたときの〈世界〉とは別物なんだという自覚を
どれだけ保持できるかが、ひとつのポイントでしょうね。

ママサンの眼差しの確かさは、安宿に泊まり、街場の大衆食堂で腹を満たしているから、
・・・だとすれば、いまのわたしもママサンに近づきつつある(笑)

投稿: 畑仲哲雄 | 2011年7月10日 (日) 11時30分

旧ソ連=ロシア取材、インドシナ半島諸国・・・そこらへんの取材では、ベタベタに庶民暮らしを経験しつつでしたのですが、現実に取材に行って意外だったのがアメリカでした。
日本に伝わるアメリカは、大西洋岸一部地域と太平洋岸一部地域だけだったんだぁ、と気付かされました。
ピックアップトラックの運転席の後ろにはショットガン常備・・・ってなところがあり、定年退職後の夢は、「広い海が見えるところに行きたかった」ってなパスポートをもっていないオヤジたちがぞろぞろといる。ブッシュ二世の基盤ってこれだったのね、って思ったりして。
景色の見方、なんでしょうかね?

ただ、今の日本のマスメディアの現場を知っている人材が、その上で、それをメディア論の中で位置づけてゆく作業はとても重要なことだと思っています。
「自らの経験」しか語れない、論理の伴わない、単なる元エリート記者たちではない人材が、日本でのジャーナリズム論、マス・メディア論を切りい開いてゆく必要があると、常々、思っています。

期待しています。

投稿: ママサン | 2011年7月12日 (火) 06時58分

>ママサン、

わたしは行ったことがないけど、米国のバイブルベルトは、すごいですね(笑)。
報道機関と大学の関係も難儀な問題のようですよ。
ようするに著名な報道機関が著名な大学に寄付講座を設ける“勝ち組連合”もあります。
かつて理系の研究室に対して産学のある種の関係を批判をしていた尖った文系のセンセイたちが、
巨大企業のお金をあてにするようになったら、、、、

投稿: 畑仲哲雄 | 2011年7月12日 (火) 07時25分

>「自らの経験」しか語れない、論理の伴わない、単なる元エリート記者たちではない人材が、ジャーナリズム「論」、マス・メディア「論」、メディア「論」切りい開いてゆく必要がある

たとえば

「自らの経験」しか語れない、論理の伴わない、単なる元エリートではない大工が建築「論」を切り開く
「自らの経験」しか語れない、論理の伴わない、単なる元エリートではない外科医が手術「論」を切り開く
「自らの経験」しか語れない、論理の伴わない、単なる元エリートではない料理人が食事「論」を切り開く

どれもあまり有意義な試みとは言えないだろう。

論より証拠

論を切り開く前に、
マスメディアが置かれた現実を直視し
客観的に評価する必要があると思います。

投稿: atsullow | 2011年7月25日 (月) 23時15分

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