マスコミ? プレス? メディア?
原著と訳書を見比べたとき、みょうな感覚を覚えることがある。訳書が出た当初は、特に問題がなかった表現も、時がたつにつれ、誤解と混乱を生みやすくなることがある。わたしにとって、その最たるものが『マス・コミの自由に関する四理論』である。これを今の学部生に「必読です」といきなり読ませても混乱するだろう。というのも、原題は Four Theories of the Press で、「マス・コミ」などという言葉ではなく「プレス」だからだ。また、4理論のなかで「自由主義」と訳された言葉が "libertarianism" だったりする。ノージックが広く知られた今では「リバタリアニズム」のほうが通りがよい。内川先生が翻訳されたときは、それが最適の訳であったと思うが、やはり時代に応じた再訳が必要ではないか。
Siebert, F. S., Peterson, T., Schramm, W. (1956) Four Theories of The Press: The Authoritarian, Libertarian, Social Responsibility, and Soviet Communist Concepts of What the Press Should Be and Do , Urbana, University of Illinois Press. (=1959 内川芳美訳『マス・コミの自由に関する四理論』東京創元社.)
「マス・コミ」は、「マスコミュニケーション」の省略だが、この言葉自体がくせもの。マス(大衆・大量)とコミュニケーションの合成語で、〈大衆伝達〉〈大衆通報〉などと訳されたこともあった。まあ、画一的な内容を大量生産して伝えるコミュニケーションのことを指すと考えてよい。これが日本では通俗的には、新聞社やテレビ局などマスメディアを指すものとして用いられてきた。最近でこそ「メディア」「マスメディア」といような単語をよく見かけるようになったが、20年前なら全部まとめて「マスコミ」であった。
ただ、英語の press も独特な表現であり、葡萄の圧搾機を改造して活版印刷の仕組みをつくったグーテンベルクの時代にまで遡る。それが今日に至っても、press conference (記者会見)のように「プレス」で片付けられるのも、なんとも奇妙な感じがするが、わたしは英語ネイティブではないので、そのあたりのニュアンスが分からない。
そういえば、ハッチンズ委員会の A Free and Responsible Press は、『自由で責任あるメディア
』という邦題が付けられた。なるほど、現在の日本では「プレス」と片仮名にするよりも、「メディア」のほうが、わかりやすい。さすが渡辺先生。なら、先述の『マス・コミの自由に関する四理論』も、『メディアの4理論』のほうが、学生にはなじみやすいかもしれない。
いずれにせよ、定番文献や古典を読むときは、それが翻訳された時代に使われていた言葉と、現在の用法との差違に注意しないといけないですね。
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コメント
確か、マス・コミュニケーションという言葉は、戦時の国民啓蒙作業を総称する言葉として米国で生まれたものと理解しております。つまり、ナチスのプロパガンダと相対するような意味合いの言葉。
そういう意味で捉えると、それを「報道」と解するにはかなり距離がある。
で、自らをどう主張するかになるのですが、国内だと「報道!」と叫んでいたし、海外だと「Japanese TV」とか「Jpanese Press」あるいは単に「Press」と叫んで扉をこじ開けていた。
すみません。実践論です。
投稿: ママサン | 2011年12月 5日 (月) 00時14分