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2011年12月 6日 (火)

ジャーナリストの道徳的ジレンマ(2)(備忘録)

前回のバスジャック事件の備忘録に続いて、もうひとつ、沖縄防衛局長のオフレコ失言について考えてみたい。この問題も、個別具体的な固有名詞を出さず、むしろ考え方をすっきりさせるために、話をやや抽象化して考えたい。具体的な話にすると、詳しい背景事情を知る者だけの内向きな話になりがちなのので、読者を含めた市民社会の中で議論をしたいと思う。

「オフレコ問題に関する日本新聞協会編集委員会の見解」日本新聞協会
http://www.pressnet.or.jp/statement/report/960214_109.html

事例2)ある日ある時ある町の居酒屋で、記者と政府高官が懇談していた。この懇談にはある因襲があった。高官は公式発表ではわからない裏側や本音について腹蔵なく話すが、それをニュースとして報道することはまかりならぬというものである。ジャーナリストには「本音」「真実」に迫れるメリットがあり、高官にも「正しく」「意図通りに」報道してもらうというメリットがあり、長年の慣行としておこなわれてきた。その夜のオフレコ懇談で、高官がある特定の地域に暮らす人を侮蔑する問題発言をした。現場には数人の記者がいたが、その地域の住民に向けて記事を書く地元記者だけが、因襲を破って記事にした。

このとき、記事にした記者も、しなかった記者も、ともに道徳的なダブルバインドに陥ったと思われる。ジャーナリストと高官の間には、「記事にしない=本音で話す」という明文化されてはいないものの、一種の契約のようなものがあった。それは、情報源の秘匿のように「表現の自由」にかかわるようなものではない。むしろ、権力者による情報操作に悪用されてきたことへの批判がなされてきたものである。オフレコを受け入れたにもかかわらず、そこでの発言を書けば、制裁が発動される。たとえば、二度とオフレコ懇談の場には入れてもらえなくなり、今後も取材をしにくくなるなどのリスクを負う。同業他社の記者からも批判を浴びる。

しかし一方、ジャーナリストは、記事を読んでくれる地元住民との間にも「約束」がある。それは地元の人々を決して裏切らないという信頼関係のもとに作られてきた基盤であり、オフ懇のような損得勘定だけでは測れない共同体の価値に結びついたものだ。はたしてオフ懇の「契約」は、地元住民との「約束」にまさるであろうか。そこにも、前の事例と同じように、「記者として」という立場と、「市民として(地域住民のひとりとして)」というジレンマが発生するのではないか。

ところで、この問題を、「書かなかった記者」の立場において考えればどうだろう。自分の地元民そのもの感情は害されなかったが、他県の住民が激怒する失言を聞いたとしよう。それを黙って聞いていることは正しいことなのか。それは(事例1)で述べたトロッコの進路を切り替えずに傍観すること以上の道徳的問題があるのではないか。

この問題について、「そんな問題発言があったらその場で正々堂々と喧嘩すべきで、だまし討ちのように書くのは信義則違反だ」というように、当事者の行動をあげつらうようなコメントも散見された。だが、わたしには、そういう批判は的外れに思える。それは、この問題がすべてのジャーナリストにとって道徳的にも深みのある問題を提起するものなのに、ひとりの記者、ひとつの会社の振る舞い方に矮小化しようとしているようにみえるのである。

2つの事例を通じて思うのは、ナショナルメディアのジャーナリストは、業界の倫理規定に忠実なあまり、ローカルなメディアのジャーナリストに比べると、道徳的に自問自答する機会に恵まれないということである。すべてを業界基準に準拠して機械的に判断すれば、行動は一貫性を帯びるし、リスクも軽減される。ある意味、判断に迷いがなくなる。だが、それは思考を単純化し、「精神なき専門人、心情なき享楽人」(M.ウェーバー)を作り出してしまうことになりかねない。

わたしなりの考えを述べれば、事例1)の腕章を貸したジャーナリストの行動も、事例2)オフレコ発言を書いたジャーナリストの行動も、ともに自分の所属している地域社会との結びつきを重視し、近視眼的な損得勘定を超えた共通善に価値を見出したコミュニタリアンとして高く評価できるということである。自らの存在理由を何度も何度も反芻し、処罰や非難を受けるリスクを背負いながら試行錯誤するジャーナリストがいる社会のほうがよい。そういうジャーナリストたちが、市民社会と討議できる公共的な空間があれば、なおよい。

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コメント

読者を含めた市民社会とともに自らのありようを考えることに既存のメディアは無関心なんですね。「読者」はかろうじて見えたとしても、「市民」の姿は見えない。われわれがソーシャルメディアの分野で苦労しているときは読者かどうか気にする余裕さえありません。記者教育
や人材養成の観点からもソーシャルメディアへのリーチは必須です。きょうある場でそんなことを発言する予定です。ww

投稿: 佐藤和文 | 2011年12月 6日 (火) 11時02分

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