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2012年5月29日 (火)

「大手病」に対する「無難病」

わたしにとって最初の就職活動は約30年前に遡る。当時は、今日ほど深刻な就職難ではなかったが、それでも就職活動なんてものは楽しいものではなく、よい経験になったとは思えない。わたしたちの世代も、「大手」「有名」企業を志向する傾向があり、「浅薄だ」「本当にやりたいことを考えろ」などと批判されたものである。最近では「大手病」というらしいが、「浅薄」なのは学生側だけだろうか。そうではなくて、むしろ採用側のほうが大学のブランドにこだわっていないのかか。もっといえば、そうした風潮は日本全体を覆っているのではないか。

30年ほど前のことだが、あるマスメディア企業の就職説明会に参加した。参加した100人超の学生は大学ごとに整列させられ、京大や阪大などのブランド大学の学生だけが別室に連れて行かれた。第2グループの関関同立生(わたしもそのひとりであった)は、その場で簡単な面接を受けただけであった。だが、第3グループの「その他」の学生は、気の毒なことに「人数の関係」とかなんとかいってノベルティグッズを与えられ社内見学だけで帰されていた。

こうしたブランド志向の選考で入社した学生には、ある種の選民意識が植え付けられ、企業間格差や大学間格差を温存することに抵抗がなくなるのではないか。だが、当時のわたしには、そんなことを口にすることはできず、人事担当者に卑屈な笑みを浮かべるしかなかった。たいへん情けなく、腹立たしい。

なるほど、一部の就職活動評論家たちがいうように、産業構造の変動によって「一流」企業が経営破綻することもあれば、取るに足りない産業が巨大化することもあるだろう。花形企業や産業が入れ替わるのは世の常だ。だけど、これから、どの企業が伸びるのか、どの業界が沈むのかは、簡単には分からない。30年後の市場経済を予知できるという人もいるかもしれないが、その人が30年後に予言が外れたとき、責任を取ることはないだろう。

まず大手・有名企業に応募して、徐々にランクを下げていき、最後には中小・零細企業へと応募をする学生の行動は、採用企業が有名大学出身者を優先して徐々にランクを下げていくことの裏返しである。それは、無用なリスクを避け、ある程度の確からしさを調達する合理的な態度であろう。多くの学生にしてみれば、とりあえず内定をもらうことが優先課題であろう。生涯賭けて取り組むべき仕事を決めた学生の比率は低い。なので、学生側が仕事優先ではなく、勤め先優先になるのは避けがたい。

他方、採用側はどうだろう。どの会社にも不良資産のような人材は一定程度いる。その比率を下げるための方法として、採用段階でよりマシな人材を採ることも重視されよう。事務処理能力が高そうで、体力がありそうで、組織に従順そうな人材は無難である。しかし、そうした無難な採用活動を続けていれば、やがて組織が無気力な「無難病」という一種の大企業病に罹患して、内側から腐ってしまいかねない。腐っても鯛かもしれないが・・・

こうした構図を変える方策のひとつは、ワークシェアリングを実行して雇用機会を増やすことや、意欲のある人が起業しやすい投資環境を構築すること、そして、NGOやNPOなどの非営利組織が収益事業をやりやすくするための政策を実行することだろう。その次にやるべきは、「東大○○人、早慶○○人」というような採用実績を自慢している腐った組織を笑うことかな。

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