米国ジャーナリズム信仰への疑問
日本の「主流」メディアのジャーナリストたちや経営者は、米主流メディアの影響下にある。GHQ/SCAPによる占領時代、日本の「主流」新聞経営者たちは、CIE局長ケン・ダイクやダニエル・インボデンから、ジャーナリズムの何たるか、新聞経営の何たるかを「再教育」され、米新聞界を「お手本」にするようになった。今日も、多くの新聞関係者はアメリカ・ジャーナリズムへの信仰心が篤い。
なるほど新聞業界の産業面での凋落ぶりは米国が先行している。このため米国で工夫して生き残っている実例を学ぶ機会は少なくないだろう。「イノベーション」とされる新しい実践例も少なくなさそうである。また、休廃刊していった名門紙がどのように消えていったかを知ることも、大きな学びとなろう。
だが、疑問がある。なぜいつも米国だけがお手本なのか。たしかに米主流ジャーナリズムは、外部からの干渉を退け自らの手で高度な職業倫理を確立してきた。その実践倫理には目を見はるものがある。パブリック・ジャーナリズムという輝かしい実践もあった。PBSやNPRのような公共放送も日本の公共放送を考えるうえで示唆に富む。しかし米国と日本とでは歴史・政治・文化的な背景が著しく異なる。たとえば、長野県松本市にNew York Times社を移転しても、『市民タイムス』に勝てるとは思えないし、NPRやPBSのような放送局は日本ですぐに成立するとは思えない。
新聞やジャーナリズムのイノベーションは、つねに米国が先行しているわけではない。日本の〈周縁〉のメディアには見過ごされてきた革新的な実践がある。私の研究対象である上越タイムス社はその典型と思うし、丹波新聞の地域医療に関する報道は出色である。逆境下にある新聞経営者ほど工夫を凝らす必要があったし、記者たちは「これはジャーナリズムだろうか」と反省的な自問をする機会が多く、「主流」ジャーナリスト以上に思想的な深みもある。だけど、彼ら彼女らの多くは、日本の「主流」メディア関係者からまともに相手にされてこなかった。
どっしりと地域に根を下ろした経営とジャーナリズム実践は、世界各地でおこなわれている。彼ら彼女らこそが、もっとも普遍的な存在であり、学ぶべきものも豊富にある。「主流」メディアでも採り入れられる実践例があると思うが、たとえ視界に入ったとしても「見なかったことに」されているような印象をわたしは抱く。すなわち、「あんなのから学ぶなんて、プライドが許さない」という感じ。
今後の課題は、各地域のジャーナリストが学び合うための土俗的な?討議空間が必要ではないかなと思う。
| 固定リンク
「journalism」カテゴリの記事
- 大学の序列と書き手の属性(2023.03.30)
- 2020年に観た映画とドラマ(備忘録)(2020.12.29)
- 議論を誘発する『赤い闇 スターリンの冷たい大地で』(2020.08.20)
- 捜査幹部から賭けマージャンの誘いを受けたら 連載「ジャーナリズムの道徳的ジレンマ」第23回(2020.06.13)
- 取材源の秘匿について-産経新聞「主張」を批判する(2020.05.22)
「democracy」カテゴリの記事
- 2020年に観た映画とドラマ(備忘録)(2020.12.29)
- 被害者の実名報道について(2019.10.27)
- 始動 全国地域紙ネット(2017.07.03)
- 結党目的を失った大阪維新は解党すべきか(2015.05.18)
- 形式的な「両論併記」の罠(2015.05.17)
「sociology」カテゴリの記事
- 2020年に観た映画とドラマ(備忘録)(2020.12.29)
- 新聞書評『沖縄で新聞記者になる』(2020.05.19)
- 記者たちの省察~『沖縄で新聞記者になる』を書いて(2020.03.30)
- 『沖縄で新聞記者になる:本土出身者たちが語る沖縄とジャーナリズム』出版しました(2020.02.17)
- 『ジャーナリズムの道徳的ジレンマ』重版出来!(2019.11.29)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント
面白く拝読。そういうポイントもあるかもしれません。ただ、モデルはどこのモデルを使っても、それだけでは本当のところは役に立たないという前提を置く必要があると考えます。
日本の新聞界と米国の新聞界の間に、ご指摘のようないきさつがあったのは事実でしょうが、実際は学んでも学ばす、見えても見えず、だったのではないでしょうか。米国モデル一つ参照できずに現在に至っていると言った方が現実に近いように思います。
個人的には、新聞社でネットの分野を担当するようになってから、かなりの回数、米国に行って調査してきました。すぐに分かったのは、いかにネットとはいえ、米国モデルをそのまま日本に持ち込むのは不可能だ、ということでした。それでも米国に足を運んだ理由は、自分がやろうとする仕事や考え方を、いったん相対化する手がかりが必要だったためです。言葉を変えるなら、相対化できればどのモデルでもよかったんです。
「主流」「周縁」という二分法的なアプローチには関心があります。ただし、評価軸の置き方としてありうるとは思いますが「主流」「周縁」それぞれの多様性についても語る必要があると思うし、その境界領域についても、しっかり位置づける必要があるのではないかと思うのです。メディア、ジャーナリズムの問題を「主流」「周縁」の概念で考えていく際に、やはりその分析手法を相対化する手がかりが必要です。欧米で調査してみるというステップは、そうした意味で重要なんじゃないかと思うのです。
個人的に気になっているのは、米国モデルを学んでも学べなかった理由の方です。「主流」「周縁」問わず、その「理由」こそがこれからのジャーナリズムを考えるうえで、重要だ、と「オールドリベラル」は思ってしまうのです。
投稿: 佐藤和文 | 2012年6月20日 (水) 16時23分
佐藤和文様、
なんともタイミングの悪い記事で本当にすみません。意識したわけでは決してありませんし、佐藤さんが米国の「主流」ジャーナリズムの信者だとも思っていませんので、どうかご容赦を。
さて、「モデルはどこのモデルを使っても、それだけでは本当のところは役に立たない」というのは至言だと思います。地域の実情に応じた新聞づくりの営みが存在するわけですので、地域ごとに多様なジャーナリズムがあると考えるべきでしょうね。
GHQの「再教育」の実情は、歴史研究者に検討してもらいたいですが、「実際は学んでも学ばす、見えても見えず」という鋭いご指摘には、思わず笑ってしまいました。日本新聞協会の10年史を読むと、「あいつらに教えられるまでもなく、わしらのほうが詳しく知っとるわい」というような負け惜しみも記されていて、けっこう笑えました。当時の経営者たちはGHQに対して面従腹背のしたたかさをもっていたようです。
「「主流」「周縁」それぞれ の多様性についても語る必要があると思うし」というのは、まさにその通りだと思います。New York Times にも周縁的な仕事をしている人もいれば、零細新聞社の健筆を振るい強引な経営をしている人もいるわけですから。企業単位でみると、見えないものもあるでしょうね。それは佐藤さんからいただいた戒めとして胸に刻んでいますし、それを越えるのが課題です。
わたしが関心をもっている現代のコミュニタリアニズムという政治思想は、じつのところ、佐藤さんの平等志向の自由主義と近接しています。ただ、コミュニタリアンは「徳」とか「善」とか古色蒼然としたような議論をふっかけるとき、隣組制度みたいな窮屈な共同体を想起させることがあり、その点、大いに困ります。
モデル的思考でいえば、最近のわたしが妄想していることがあります。それは、全国紙を「帝国」に例えれば、地域紙は「都市国家」のような存在ではないか、と。有力県紙やブロック紙は「中規模国家」になります。かのモンテスキューは、帝国には専制政、都市国家には共和政が向いていると説いており、中規模国家は君主政がよいと論じています(共和政は現代コミュニタリアニズムのルーツのひとつです)。
でも、アメリカは帝国的な広がりをもつくせに建国時には共和政を統治のモデルにしていて、なかなかに面白いのです。佐藤さんのホームグラウンドである河北は、ときに帝国的であり、都市国家的な一面ももっており、君主政体的でもあるわけで、いろんなモデルを通して、ビジネスの芽をみつけていくことが寛容なのでしょうね。
またわけのわからない議論をふっかけてしまいました。ごめんなさい。一度、仙台でじっくりお話ししましょう!相談したいことは山ほどあります。
投稿: 畑仲哲雄 | 2012年6月20日 (水) 17時55分
新聞の世界に興味を持ってくれるアカデミズムの人たち(ほとんどいませんが)と協働しなければ、道は開けません。繰り返しになりますが、自らを相対化する訓練を受けていない人たちがあまりに多すぎます。外の空気を取り入れて、大きく深呼吸することから始める必要があります。よろしくお願いします。
投稿: 佐藤和文 | 2012年6月20日 (水) 21時53分
佐藤様、
たしかに「新聞研究」をしている研究者は少数派かもしれませんね。〈新聞〉に興味を持っている方のなかにも「一流紙」志向が強かったり、、、
今後ともよろしくお願いします。新聞の復権と新聞研究の復権を!
投稿: 畑仲哲雄 | 2012年6月20日 (水) 22時30分
畑仲さん、ご無沙汰です。共同通信時代はお世話になった酒井です。会社を辞めてから11年半台湾にいましたが、今年戻ってきて現在地方の私大で教えています。
連絡をいただきたいので、私の名前と台湾で検索のうえブログのメアドにメールをお願いします。
投稿: 酒井亨 | 2012年12月12日 (水) 17時47分