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2013年1月31日 (木)

最近みたジャーナリストの映画

この間、ジャーナリズムに関する映画もいくつか観たので、備忘録としてメモしておく。ジャーナリストを主人公にした映画には、ラブロマンスやコメディ、サスペンス、アクションなどが豊富にあるが、わたしが興味をもつのは実話・実録モノである。最近みた2作品のうちひとつはジャーナリストを対象としたノンフィクションで、もうひとつはジャーナリストが半生を回顧した作品の映像化である。いずれも論文書きのため観るのをがまんしていた。

アレックス・ギブニー監督『GONZO――ならず者ジャーナリスト、ハンター・S・トンプソンのすべて』(原題:Gonzo: The Life and Work of Hunter S. Thompson、公開年2011)
山下敦弘監督『マイ・バック・ページ』(公開年2011)

ギブニーといえば、『エンロン――巨大企業はいかにして崩壊したのか?』(原題Enron: The Smartest Guys in the Room、公開年2005)で知られるドキュメンタリー映像作家で、彼自身がジャーナリストといえる。『GONZO』が焦点化したハンター・S・トンプソンは型破りなフリーランス・ジャーナリストで、報道の客観性objectivity問題を立ち止まって考える時間を得られた。

トンプソンの手法は広義のニュー・ジャーナリズムに位置づけられる。そのスタイルは公正・不偏・精確・・・重きを置く『ニューヨーク・タイムズ』など主流メディアと対極にあるアプローチで、生身の人間が対象世界に肉薄することではじめて得られる情報を個性的に伝える点に特徴がある。カウンター・カルチャーを体現した『ビレッジ・ヴォイス(The Village Voice)』や『ローリング・ストーン(Rolling Stone)』などがニュー・ジャーナリズムの表現の場であった。

冒頭で紹介されるトンプソン1967年の出世作 Hell's Angels: The Strange and Terrible Saga of the Outlaw Motorcycle Gangs (飯田隆昭訳『ヘルズ・エンジェルズ――地獄の天使たち 異様で恐ろしいサガ』国書刊行会2010年)は、エスノグラフィーと同じアプローチによって書かれた作品である。トンプソンは暴走族社会に潜り込み、生活をともにし、同じ地平から世界を見るという個人的な経験を通じて見えてきたエンジェルたちの世界が、客観報道からほど遠いがゆえに説得力をもつ。

ただし、トンプソンたちニュー・ジャーナリズムの担い手たちの作品は、事実と意見の峻別を命じる主流ジャーナリズムの規範から逸脱し、トンプソンたちの「語り」は強い作家性を帯びる。「ならず者」を自称するトンプソンは、取材対象にとって迷惑千万な存在として立ち現れる必要があった。取材者が対象に影響を及ぼすという現象は、「一流」「大手」メディアのジャーナリストたちも避けられるものではなく、トンプソンたちは「客観」「不偏」を偽装しない分、誠実であったともいえるだろう

ギブニー自身の手法は、本人や関係者へのインタビュー映像や二次資料を駆使しており、正統的ドキュメンタリーの枠内にある。トンプソンに強い関心をもつが、対象とは一定の距離を保ち、過度な嫌悪や肩入れを慎んでいる。それ自体は悪くはないが、もしギブニーがGONZO的なジャーナリズムの手法でこの作品を作っていれば、どのような仕上がりになっていたか興味のわくところである。

いずれにせよ、われわれが「ジャーナリズム」という言葉を使うとき、「一流」「大手」メディアを連想し、ニュー・ジャーナリズム的なものを「色物」として位置づけがちである。この作品は、そうした先入観がジャーナリズムの権威主義的な偏った見方を強化する危険性があることをはからずも思い知らせてくれる。いろんなジャーナリズムがあってよい。

『マイ・バック・ページ』は評論家・川本三郎さんの自伝を映画化したもので、1960年代後半から1970年代前半の闘争時代に青年期を過ごした人々からすれば、安易にふり返られる内容ではないと思われる。なので、センチメンタルな部分には触れず、ジャーナリストと取材対象の関係性について考えてみたい。

物語の主人公・沢田雅巳は週刊誌記者で、学園闘争に身を投じた同年代の人々に気後れを感じている。澤田は、革命家を自称する梅山たちと出会い、彼らに肉薄して革命闘争をスクープしたいと願う。だが、梅山たちはマスメディアを頼みに自らの存在をアピールする無名集団にすぎない。梅山たちは、武器奪取のため自衛官を殺害し、澤田に特ダネを売る。澤田は殺害された自衛官の腕章を借り受け、取材協力費を手渡す。

後日、捜査当局の聴取を受けた澤田は「取材で知り得た情報は話さない」という姿勢を貫く。だが、映画で描かれる澤田の内面は「情報源の秘匿」のため信念を貫くというものではない。澤田の胸中には、学生闘争を傍観したことの罪悪感、特ダネを欲しがる商業メディアの卑屈さ、そして革命家を自称する梅山への不信・・・といった複雑な感情が混じり合ったものとなっている。

結果的には、取材対象にのめり込みすぎた若いジャーナリストの失敗譚ともいえる。しかし、じぶん自身がもし、あの時代の、報道合戦の渦中に放り出されていれば、澤田ほど誠実な立ち振る舞いができたかどうか自信がない。主流ジャーナリズムを体現する東都新聞社会部は、梅山を「刑事犯」と断じ警察に協力するが、澤田は梅山を「政治犯」だと信じようとしてもがく。若き日の「真実」を反省的に描いた『マイ・バック・ページ――ある60年代の物語』によって、川本さんは、あのとき彼をなぜ信じてしまったかという問題についてのニュー・ジャーナリズム作品をようやく完結させたのだろうか。

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