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2015年5月17日 (日)

形式的な「両論併記」の罠

 大学教員が授業で自分の(政治的な)意見を表明することは良くないことでしょうか。一般紙がよくやる「両論併記」のように形式的「中立」の見解を述べるにとどめるべきなのでしょうか。わたしは決してそんなふうに思いません。なぜなら、形ばかりの「中立」という立場が、ひとつのイデオロギーを体現する場合があるからです。中立を装いながら、場合によっては体制維持に有利に働いたり、あるいは一種の暴論をまともな意見として認める危険性があるからです。

 たとえば、「成人年齢を18歳にすべきかどうか」というような議論であれば「中立」もあり得るかもしれませんが、「疑わしきは被告人の利益とすべきか否か」、「生活保護制度を廃止すべきかどうか」、「本土防衛のため沖縄は犠牲になるべきかどうか」、「在日外国人の権利は制限されるべきか否か」、「敵対的な国に対する先制攻撃は許されるかどうか」、「決められない民主主義より決められる独裁にすべきかどうか」・・・・ というような極端な問いに「中立」も「公正」もへったくれもありません。人権や平和といった憲法の理念となっているような価値に、あえて「暴論」をぶつけて「両論併記」形式で論じることはアンフェアです。

 あらゆる人間集団にはなにがしかの規範や倫理が埋め込まれています。あらゆる人はコミュニティのなかで一人前の存在になる。その際、わたしたちは他者との関わりを通して善/悪などの考え方の筋道を学び、時間をかけて成長します。政治哲学のひとつの考え方にコミュニタリアニズムがあります。その論者によれば、人は物心ついたころから、ある種の状況下で成長する物語的な存在です。そうした人間観にわたしは説得力を感じます。

 わたしは授業で時事問題を扱うことが少なくありませんので、学生にとって政治的なバイアスを感じることがあるようです。ヘイトスピーチには怒りを覚えますし、原子力発電は全廃すべきだと思っています。特定秘密保護法や集団的自衛権や解釈改憲は論外だと考えています。メディアを操縦しようとする劇場型政治家たちには敵意さえを抱きます。死刑制度も止めるべきという立場です。そうした問題に積極的に言及しています。

 そんなとき「両論併記」でお茶を濁すわけにはいきません。かといってわたしの「結論」を押しつけることもフェアではない。重要なことは、みずからの思考の過程を丁寧に説明すること。そして、わたしの意見に反対する意見があってもよくて(講義室の外にはそうした意見のほうが多い)、そのことを必ず伝えることです。そのさい、わたしはよくボルテールの金言を紹介します。「私はあなたの意見には反対だ。だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」。

 ボルテームの考え方自体が、一種のイデオロギーを体現しているわけですが、すくなくとも、ビビリ意識から「両論併記」の罠に陥ることはありません。ただ、教員と学生の関係は非対称なので、そのことも同時に伝えなければ、やはり偏向授業と受け止められかねません。難しい問題ですが、それでも逃げてはいけない。教員自らがじぶんの意見を封印することはデモクラシーからの退却になると思うからです。

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