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2018年3月12日 (月)

映画『否定と肯定』にみる大衆のメディア

ヘイトスピーチが飛び交う日本で、この映画が上映される意義は大きいと思います。ただ、メディアの観点から見ると、沈鬱な気持ちにならざるを得ません。なぜか。ホロコーストを否定する「歴史学者」は、自ら起こした裁判で敗れ、差別者の烙印を押されても、タブロイド紙やトーク番組が彼を声を取り上げ続けているからです。弁護士や学者は法廷で勝つことを優先しますが、大衆メディアにとって重要なのは「部数が稼げる」「視聴率が取れる」ことなのでしょう。ジャーナリストたちにはそういうところも意識して見てほしい作品です。

ミック・ジャクソン監督『否定と肯定』2016年イギリス・アメリカ合作、デボラ・リプシュタット原作

この映画の内容について、多くの人が詳しく論じているので、わたしが説明することは何もありません。個人的にはいい映画だと思います。

この映画で私がなるほどと思ったのは、ホロコーストをなかったことにしようとする歴史修正主義者に対し、主人公リップシュタット側の弁護団が採った作戦です。一言でいうと、リップシュタットやホロコーストの生存者に証言させなかったことです。リップシュタットや生存者が、もし証言台に立てば、ヒトラーを尊敬する原告アービングから侮辱し、傷つけ、辱める質問を受けることが予想されたからです。「言論に言論で対抗しないのは臆病者だ」と考えて、ヘイトスピーカーと対峙すべきではないということです。

映画の中では、アービングが過去に、ホロコースト生存者を「この人は刺青(囚人番号を記したもの)でいくら稼いだのかな」と言い放つ場面が描かれます。映画のなかで作られたアービングの人物像は、大衆メディアの喜ばせ方を熟知していて、ときに力強いアジテーターであり、ときに反ユダヤ主義者を喜ばせるジョークを繰り出すエンターテナーです。

この映画の冒頭部分で、リップシュタットの講演会場にやってきたアービングが論戦を仕掛ける場面が描かれます。講演を台無しにされて動揺するリップシュタットの表情は、アービングが連れてきた撮影班によって撮影され、ネットでさらされます。ネットでは、アウシュビッツの悲劇よりも、惨めにうろたえる学者の表情のほうに注目が集まるのでしょう。アービングによる印象操作に、リップシュタットはひどく傷つけられます。

こういう汚い手法を採る人は日本にもいて、YouTubeでも「完全論破」などの見出しをつけた動画がいくつも公開されています。特定のメディアやジャーナリストを口汚く罵る政治家もいますし、まったくのデマを拡散させる放送作家もいます。「東芝クレーマー事件」のように、名もなき市民が巨大企業と闘うためにネットを利用するのではなく、強者が弱者を貶め、辱め、傷つけるのにネットを利用する。それが当たり前になった世界にわたしたちは生きています。

この映画によって描かれている社会の分断。それは、インターネット対マスメディアでもなく、反ユダヤ対ユダヤではなく、むしろ、〈愚民〉対〈エリート〉のように感じられました。大衆のなかには、エルビス・プレスリーはまだ生きていると信じている人や、地球が丸いことを認めない人、進化論を邪悪な考えだと信じる人たちがいます。そういう人々の言説のほうが、ネットでは人目をひき広告収入につながるし、タブロイドの部数や低俗番組の視聴率にも寄与するのでしょう。映画のエンディング場面を見て、わたしはとても暗い気持ちになりました。

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