戦没新聞人の碑とカメジロー
これまで仕事のため沖縄を数回訪れていますが、今春ようやく「戦没新聞人の碑」の前に立ちました。この碑はわたしが生まれた1961年9月の末に建立されています。除幕式のようすについて、毎日新聞はベタ記事で次のように伝えています。
【那覇三十日三原特派員】沖縄で戦死した新聞人十四人の功をたたえる「戦没新聞人の碑」の除幕式が新聞週間を前に(1961年9月)三十日午後、遺族をはじめ瀬長琉球政府副主席、新聞、放送関係者ら約百人が列席那覇市波上、旭加丘で行われた。戦没者のうち十二氏は、当時の沖縄新聞社の関係者で、そのほとんどは輪転機を最後まで守り砲爆撃に倒れた。他の二氏は宗貞利登朝日新聞那覇市局長、下瀬豊毎日新聞那覇支局記者で、激烈を極めた戦場で報道の任務に散ったものである。
この碑の前で慰霊祭が毎年営まれているようですが、胸中は複雑です。というのも当時の新聞人は戦時宣伝の担い手だったからです。「自由な報道が許されず不本意であった」という人が皆無だったとは思いませんが、むのたけじさんの回想などを読んでいると、当時の新聞倫理がどのようなものであったかは容易に想像できます。沖縄でどのような新聞が発行されていたかについては、琉球新報社の『沖縄戦新聞』でも一端が紹介されています。
14人の記者たちの人としての死は悼みます。しかし、ペンを握る兵隊として国家に忠誠を誓い、読者にフェイクニュースを垂れ流し続けたであろう「新聞人」について、「功をたたえる」という気持ちにはなれないし、「報道の任務に散った」という表現に違和感も覚えました。そもそもそれは「報道」なのでしょうか。
毎日新聞は2001年10月、この碑の記事を掲載しています。それによると、この碑は「地元紙有志によって建立され、33回忌までは合同慰霊祭が開かれていた」そうで、14人のなかには同盟通信(共同・時事・電通の前身)の社員もいたようです。また、下瀬豊記者は「毎日新聞地方部(西部)取材課」だったと伝えられています。(三原特派員には申し訳ないが、復帰前の沖縄で取材するのは難しかったのかな)
この「戦没新聞人の碑」から西へ歩いて10分ほどのところに「不屈館」があります。1961年の三原特派員の記事に出てくる瀬名琉球政府副主席が残した資料を展示する記念館です。瀬長亀次郎。その人は、沖縄県民の自由と権利のために尽くした政治家で、記念館の名称は彼の座右の銘から取られています。沖縄では「先生」などという尊称ではなく、たんに「カメジロー」と呼ばれ敬愛されている偉人のひとりです。
今春、不屈館を初めて訪れ「年譜」に目をやったところ、1940年、カメジローが30歳のとき、中国から復員後、毎日新聞那覇支局記者として活動していたことが記されていました。もしかすると、カメジローにとって14人は元同僚だったのかもしれません。
なるほど、戦後世代のわたしが、当時の状況を一切考慮せず、鬼の首でも取ったように「戦時下の新聞人などはフェイクニュースを垂れ流した戦犯だ」と難じることは可能かも知れませんが、それは配慮に欠ける行為。この碑を建てた琉球新報や沖縄タイムスの関係者にしてみれば、そういうものを超えて沖縄戦を伝えるために必要だったわけでしょうし、戦争のために決してペンを取らないという反省から沖縄ジャーナリズムが再出発したことを重く受け止めるべきでしょうね。
| 固定リンク
「journalism」カテゴリの記事
- 再掲載:「社会人と大学院」 約20年前の記事ですが(2026.07.08)
- 「外的な継承と内的な継承」:NHK放文研・古澤健(2026)のレビュー(2026.06.02)
- ドキュメンタリー映画『手に魂を込め、歩いてみれば』そして、『ネタニヤフ調書』(2025.12.07)
- ドキュメンタリー評『揺さぶられる正義』(2025.08.28)
- 疋田レポート50年 ジャーナリズム倫理をめぐる遺産(2025.08.16)
「history」カテゴリの記事
- 疋田レポート50年 ジャーナリズム倫理をめぐる遺産(2025.08.16)
- 2020年に観た映画とドラマ(備忘録)(2020.12.29)
- 戦没新聞人の碑とカメジロー(2019.02.14)
- 戦後70年に読む手塚作品(2015.08.19)
- 「市民社会」がかつて含意したもの(備忘録)(2011.02.21)
この記事へのコメントは終了しました。











コメント