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2019年6月19日 (水)

調査者の属性についての備忘録

ある集団を調査するには、同じ属性を持つ者のほうがやりやすい。たとえば、性暴力の被害を受けた女性たちから聞き取りをするには、やはり女性研究者のほうがハードルは低いだろう。エスニシティやジェンダーをめぐる差別や人権をめぐる問題は、やはりマイノリティの研究者のほうが敏感である。実際のところ、マイノリティ集団の調査は、マイノリティの属性をもつ研究者によって担われることが多いのではないいか。
 
けれど、同じ属性やアイデンティティをもつからといって〝本音〟 に迫れるとは限らない。調査者と被調査者の関係が近すぎて、もはや聞くまでもない話題もあるだろうし、「これは聞いてはいけない」と規制してしまう話題もある。
他方、被調査者の側に立って考えると、近しい人には聞かれたくないけれど、赤の他人(よそ者)だからこそ話しやすい話題というものもあるはずだ。わたし自身の記者時代を振り返っても、「こんなこと誰にもしゃべったことないんだけど、じつは」「これって、親には口が裂けても言えないことだよ」「ここじゃあタブーだから誰も口にしないけど、言っちゃうよ」みたいなインタビューを幾度か経験している。
 
「よそ者」の調査者は、集団成員なら共有している体験をもたないので、情報収集の過程で誤解したり失言したりと、いわゆる地雷を踏む可能性が高い。「そんな勉強不足で来たな」「お前らよそ者に何が分かるか」・・・・・・。そんな体験をした取材者や調査者は少なくないはずだ。よそ者は、地雷を踏んでしまった苦い体験を隠すのではなく、むしろ、地雷を踏んだことが貴重な成果であると提示するほうがよいし、それが一種の強みになり得るのではないだろうか・・・・と書くと、一種の開き直りと指摘されるかも知れないかな。

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2019年6月 5日 (水)

授業で『ジャーナリズムの道徳的ジレンマ』を使う方法 連載「ジャーナリズムの道徳的ジレンマ」第22回

全国の大学で、メディアやジャーナリズムに関する講義がおこなわれています。授業の名前は大学によって「マスコミ論」「メディア論」「取材学」「新聞論」「出版論」「放送論」など異なっています。私は本務校の龍谷大学社会学部で「現代ニュース論」「メディアと倫理」を、大学院では「地域メディア研究」などの授業を担当しています。 51hqhwugil_sx348_bo1204203200_

授業で『ジャーナリズムの道徳的ジレンマ』を使う方法←click!

「現代ニュース論」は、今年度も受講者が180人にのぼったので講義形式にしていて、マスコミュニケーションの代表的な理論のほか、時事問題について討議を交えて考えるようにしています。もう一方の「メディアと倫理」という授業は、受講者数がちょうど良かったので『ジャーナリズムの道徳的ジレンマ』を教科書に指定して、グループワーク型の授業をおこないました。

学生の側から見れば、 講義形式の授業は体系的に整理整頓された情報を効率的に吸収できます。これに対し、グループディスカッションなどを取り入れたワークショップ型の授業は、彼ら彼女らが授業の主役として参加するため、内容が記憶に残りやすく、その場で頭を使うタイプの「学び」に向いているようにます。ちらも一長一短といえそうですが、同僚の教員たちによると、近年の学生にはワークショップ型の授業のほうが人気だそうです。

そこで、わたしが『ジャーナリズムの道徳的ジレンマ』をどのようにして授業で使っているかについて、けいそうビブリオフィル(勁草書房編集部サイト)に新しい記事を投稿しましたので、もし授業で使ってくださる他大学の先生がいらしたら参考にしていただきたいと思います。同時に「いやいや、こういう使い方もあるよ」というアイデアがあれば、教えていただきたいと思っています。授業のやり方については、わたし自身が試行錯誤の連続ですので。

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