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2025年7月28日 (月)

『それでも私は』『マミー』『A』が描く世間という魔物

三つの作品が突きつけた重い問い

先日、長塚洋さんが監督した『それでも私は Though I'm His Daughter』を観ました。見終わったあと、1年ほど前に観た二村真弘監督の『マミー』や森達也監督の『A』を観たときのような、なんともいえない重苦しい気持ちになりました。

長塚さんの『それでも私は』は、オウム真理教教祖・麻原彰晃の三女である松本麗華さんに密着したドキュメンタリーです。地下鉄サリン事件の後、教団本部が捜索されて教祖や幹部が逮捕されて一家離散になったとき、松本さんはまだ12歳でした。教団の教義に基づいて教育された松本さんは、16歳でようやく教団から離脱し、一人の人間として生き直そうとします。

しかし、「教祖の娘」ということを知られるたびに、「世間」は彼女を排除しました。大学入試に合格しても入学を拒否され、銀行口座の開設も認められず、アルバイトも次々と解雇される。そんな排除の連鎖に、彼女は長年晒され続けています。

松本さんは、自分の意志で教祖の娘になったわけでもありません。幼かった彼女は一連の事件とも無関係です。つまり彼女は加害者どころか被害者の一人と言えます。それなのに彼女は「逃れられない過去」に苦しめられてきました。「死にたい」と漏らす松本さんの現実を、長塚さんのカメラは淡々と映し出しています。

手記に綴られた「世間」という名の権力

松本さんは2015年に、手記『止まった時計:麻原彰晃の三女・アーチャリーの手記』を出版しています。そこには、彼女を苦しめた「世間」の姿が何度も記録されていました。

罪のない少女を「アーチャリー」と呼び、からかうような記事を書いた当時の夕刊紙や週刊誌の記者たち。面白おかしく報じた情報番組の制作者たち。彼女の入学を拒んだ大学関係者たち。そして、取り調べの際に罪の意識を植え付けようとした警察官や検察官たち。彼女の手記に綴られた「世間」の担い手たちの無自覚な権力性には言葉を失います。

なぜドキュメンタリーは「核心」に迫れるのか

森達也さんの『A』を観た時も、私は自分の胸に手を当てて自問しました。マスメディアは、なぜ森さんのような視点で報道できないのだろうか、と。

その理由の一つは、一般的なニュース報道が「形式的な客観性」という様式に縛られ、取材対象と一定の距離を保つことを求められるからでしょう。それに比べ、ドキュメンタリー作品では、長期間にわたって対象に寄り添い、信頼関係を築く手法がしばしば用いられます。最近知り合った放送局のディレクターが「対象に近づけば客観性から遠ざかる」と語っていましたが、まさにその通りなのだと思います。

『マミー』が問うメディアの原罪

『それでも私は』を観た後、カレンダーを振り返ると、ほぼ1年前に二村真弘監督の『マミー』を観ていました。和歌山毒物カレー事件で死刑判決を受け、今も無実を訴えている林眞須美さんの長男と夫を追ったドキュメンタリーです。

この映画で二村監督は、事件が冤罪である可能性を、実にシンプルな手法で検証していきます。大手報道機関にも調査報道を手がける記者は何人もいますが、私の知る限り、二村監督のような検証を行った例は見当たりません。少しでも冤罪の疑いが拭えないのであれば、権力監視という責務のためにも、彼の後に続くべきではないでしょうか。

しかし、おそらくそれは叶わないでしょう。なぜなら、マスメディア各社はかつてメディアスクラムによって林さん一家や近隣の住民に甚大な被害を与えており、今さら彼らから信頼を得ることは極めて困難だからです。

参考文献
長塚 洋(監督)『それでも私は Though I'm His Daughter』、2025年、Yo-Pro、119分。
二村真弘(監督)『マミー』、2024年、digTV/東風、93分。
森 達也(監督)『A』、1998年、製作:安岡卓治/配給:安岡フィルム、135分。
松本麗華(2015)『止まった時計:麻原彰晃の三女・アーチャリーの手記』(講談社)。
畑仲哲雄(2018)「加害者家族を『世間』から守れるか」『ジャーナリズムの道徳的ジレンマ』勁草書房、72-85頁。

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2025年7月26日 (土)

高学歴エリートよりも、多様な人材の確保を

2025年の今、報道の現場で働く記者たちは、私たちの世代が経験した頃とは比べものにならないほど厳しい環境にいます。そのような状況でも、ジャーナリズムの世界で奮闘する若い世代の姿には、本当に頭が下がる思いです。素晴らしい仕事をする記者は、今もたくさんいます。

それにもかかわらず、メディア全体への信頼は、残念ながら下がり続けています。なぜでしょうか。その原因の一つは、私たちオールド世代の怠慢と勉強不足にあったのかもしれません。もちろん、私自身もその責任から逃れることはできません。

エリートへの不信が、メディアにも向けられている?

この根深いメディア不信を解くヒントの一つは、マイケル・サンデルが指摘する「メリトクラシー(能力主義)」の問題に隠されているように思えます。

サンデル氏の著書『実力も運のうち』が示すように、現代では能力の高い「エリート層」へ向けられる不信感が強まっています。その眼差しは、大手メディアで働くジャーナリストたちにも、同じように向けられているのではないでしょうか。

考えてみれば、全国的に有名なメディアの中核を担う人の多くは、恵まれた家庭で育ち、難関大学を卒業したエリートです。その中で、自分が「幸運な下駄」を履かせてもらっていたと自覚している人は、どれくらいいるでしょう。

私たちの世代が就職活動していた頃、マスメディア界では「コネ入社」が横行していました(いまも一部ではあるでしょう)。親や親戚に有力者がいたり、特定の大学ゼミに所属していたりする人が、大手メディアの「組織ジャーナリスト」になるには、明らかに有利でした。そうした業界慣行が続けば、無意識のうちに、自分と似た境遇の人ばかりが集まめてしまうという構造ができても不思議ではありません。

尊敬される「偉い人」から、反感を買う「憎い人」へ

もちろん、恵まれた環境で育ったジャーナリストの中にも、素晴らしい人は大勢います。私利私欲がなく、社会のために尽くす姿は、まさに「ノブレス・オブリージュ(高貴な者の義務)」を実践する人として、称賛されるべきでしょう。いわゆる「運」も「実力」もあり、能力を開花させた幸運な人たちです。

しかし、もしそんな彼らの言動に、恵まれた自分の立場に対する無自覚さや、どこか権威的な空気が見え隠れしたら、世間の評価はどう変わるでしょう。尊敬されるべき「偉い人」は、たちまち反感を買う「憎い人」になってしまうのではないでしょうか(ソーシャルメディアでは、偽悪的に振るまう人がインフルエンサーになっています)。

多様な経験こそが、信頼回復の鍵

だからこそ、私はマスメディアの編集部門こそ、もっと多様な背景を持つ人々で構成されるべきだと考えます。数回の面接や試験だけで測れる「実力」など、実はとても曖昧なものです。組織に従順なふりをしたり、ソツのなさそうな格好を見せるだけのスキルが、善い人間を作るとは思えません。

むしろ、現代社会が抱える様々な困難に、自らの人生で直接向き合ってきた経験を持つ人(たとえば、社会的マイノリティ)。組織や上司が間違った判断をしたとき決して従わない人(抗命権を行使できる人)。ジャーナリズムの歴史的使命を大学院などで考えてきた人(学位保持者)。そうした人の比率を高めていくことこそが、メディアへの信頼を取り戻すための、確かな一歩になるのではないかと考えます。

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