疋田レポート50年 ジャーナリズム倫理をめぐる遺産
1976年、朝日新聞編集委員だった疋田桂一郎が書いた調査論文を熟読しました。通称「疋田レポート」と呼ばれるその文献の正式な題は「ある事件記事の間違い」で、朝日新聞社の「調研室報」1976年9月号に掲載されたものです。「調研室報」は社内向けの冊子で、外部には公開されていませんでしたが、上前淳一郎が「週刊文春」の連載コラムや自著で紹介したこともあり、広く伝わりました。
疋田が取り上げたのは、銀行の支店長が障害児の娘を殺害した容疑で逮捕された記事で、警察発表だけを鵜呑みにして原稿を書くことの危うさが実証的に論じられていました。疋田が公判記録を丹念に追った結果、支店長氏は、取調官が描いた物語に基づいて記された調書に署名・捺印していました。支店長氏は、幼い娘の死だけでも相当なショックでしたが、じぶんが逮捕されるという展開に混乱していたことは想像に余りあります。
刑事裁判のなかで支店長氏は「大学を出て一流の会社に勤めているような人間の考えることはわからん、とか(中略)あんたのようにお金にも恵まれた人が子供を殺すというのは許せぬ、というような色々なことを、色々な方が最初の日はきついことをいわれました」と述べました。ですが、取調官に対しては「担当の刑事さんが大変思いやりの深い方でして、その点はいまでも感謝の気持ちを持っております」と語っていた点は注意を要します。支店長氏は、逮捕直後に調書をとられた際、「死なせるという言葉は止めてください。寿命だと思って諦めたという風に書いてください」と訴えたそうです。しかし、「同じことだからそういうことにはこだわらないで」「もうおわっちゃったことなんだから」などと言われ、取調官に従ったということです。
このレポートを読んで痛感するのは、近年に起こった冤罪事件にも共通点があまりにも多いことです。わたしが毎日新聞記者になったのが1985年でしたので、疋田レポートの存在を知らないわけではありませんでしたが、警察担当をしていた時分に読む機会を逸していたことが悔やまれます。むろん、当時、わたしがそれを読んでいたとしても、問題意識を共有するためのジャーナリスト仲間がいたわけではありません。わたしはOJTを通じて取材や執筆の技術を身につけていた段階で、企業間競争の中にあって「青臭いこと」を語り合う場面はあまりありませんでした。
2026年は疋田レポート50年です。大学生や大学院生たちにも勧めてみたいと思います。
なお、疋田レポートは朝日新聞社の月刊誌『Journalism』2009年2月号に全文掲載されていますので、興味のある人は図書館で読むことをお薦めします。レポートを公開してくれた当時の朝日新聞社の関係者には敬意を表します。
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