再掲載:「社会人と大学院」 約20年前の記事ですが
わたしが共同通信社に勤務しながら大学院に入学したのは2004年でした。かれこれ20年以上前のことです。いまでこそ、大学院で研究する記者は増えましたが、あのころ修士号を持つ記者と出会うことはほとんどありませんでした。修士号を取得して少し興奮していた当時の個人的な気持ちを思い出し、約20年前に「社会人と大学院」というエントリーをあらためて掲載します。いま読み返すと気恥ずかしい記述もありますが、それほど古びているように思いません。
あれから約20年。フルタイムで働きながら、大学院で研究するのは決して楽ではありませんが、アカデミズムの技法を身につけた記者が増えることは報道メディア全体の底上げになりますし、社会人を受け入れる大学にも良い効果をもたらすことは間違いありません。
★当時の記事はこちらです
社会人と大学院(1)2007年12月07日
大学院で勉強してみたいと一度でも思ったことがある社会人はかなりいるのではないか。社会人の受け容れに熱心な大学院も増えてきたようで、都市部のビルにサテライトキャンパスを設けたり、土曜日に集中講義をしたりしている。でも、社会人の心理的なハードルは低くない。勤務先が認めてくれるかどうか。同僚に迷惑をかけるんじゃないか。転勤を命じられたら退学せざるを得ない。入試にパスしないといけないが、いまさら受験勉強をするのが億劫だ。学費だってバカにならない・・・それでも大学院に進んでみようという社会人は、明確な目的や強い問題意識があるのだと思う。
社会人がなんのために大学院に進学するのか。動機は人それぞれだと思う。仕事上の難問を解決するためであったり、研究者になる明確な計画を持っていたり、教養のなさを痛感していたり、たんにハクをつけるためであったり、勤務先で窓際に追いやられたためであったり・・・ 受け容れる大学院側の考えもさまざまだろう。社会人をお客さん扱いするところもあると思うが、社会人だからといって特別扱いしないところもある。じぶんの動機や目的にあった大学院と教員にめぐりあえれば幸せだろう。
私の経験からいえるのは、働きながら大学院で研究をするということは、それなりの犠牲を伴うということだ。ひとつは健康。研究ほど体に悪いものはない。長時間本を読んだりパソコンの画面とにらめっこをしたり、図書館や自習室にこもったり、座りっぱなしで運動不足になったり。私は目が悪くなり、慢性の肩こりに悩まされ、ときおり腰痛も出る。仕事がおろそかにしていると思われないよう、人一倍仕事をしないといけなくなり、年中疲れやすい状態だ。精神的にも楽ではない。「いい歳して」などと冷やかされたり、ひがまれたり、変人扱いされたり、敬遠されたり、生意気に思われたり、ビビられたり・・・、嫌な思いをすることが意外なほどあった。今後もあるだろう。
それでも大学院に通うようになって良かったなあと思うのは、わたしの場合、現場の知恵や経験にはない大きなものを発見できたことだ。もやもやした問題意識を整序してアカデミズムの手法を指導してくれる教員との出会いは、なにものにも代え難い。意欲ある社会人には、大学院進学を勧めます。社会人は「売り手市場」ですし。
社会人と大学院(2)2007年12月09日
わたしは大学院がどのようなところなのか、さっぱり知らずに試験を受けたわけであるが、わたしと同じく働きながら大学院に通ってみたいなあと考えている人のために、極私的なノウハウ(おそまつな失敗談を含む)を記しておこうと思う。なぜなら、大学院で研究をする社会人が増えることは、けっして悪くないと思うからだ。
第一に、大学院における学生のミッションは論文を書くことだと認識しておくこと。修士課程なら修士論文(M論)。博士課程なら博士論文(D論)。今だから言うが、入学時のわたしは、論文など書くつもりは毛頭なかった。すこし難易度の高いカルチャーセンターに通うような気持ちで、気に入ったゼミや講義にだけ出て、さっさと退学するつもりでいた。しっかりした研究が続けられるとは思っていなかったし、アカデミズムの世界をすこしナメていた。いや、腰が引けていたのかもしれない。結果としてわたしは学問の面白さに引きずり込まれ、夢中になり、なかば意地になって論文を書き、運良く博士課程への進学を許された(強運でした、ホンマに)。これから大学院を受けようと考えている人は、最初から論文を書くつもりでいるほうがいい。いいに決まっている。
第二に、大学院に入学後、指導教員をすぐに決めなければいけないということをわきまえておくことだ。そういう基本的なことを知らなかったわたしは、入学直後に学務係から「指導教員届」を出せと言われて当惑した。「ここはひとつ、一年目は指導教員なしでどうでしょう」と申し出たが、認められなかった。実をいえば、わたしは入学前から指導教員となってくれたH先生の著書に目を通し、幅の広さと奥の深さに圧倒されていた。できれば指導を仰ぎたいと思っていた。でも人間、目移りはするもので、いろんな先生の研究も知りたかったのだが、「○日までに提出しないと履修登録させぬ」と通告され、大急ぎでH研究室のドアをノックした。むろん正解だった。進学を考えている人は、事前に「この人だ!」という教員に会って、できれば事前に相談してみるべきだ。
第三に、前項とも関連するが、研究テーマを決めておくことだ。テーマをうまく言語化できなければ、どんな問題意識を持っているのかを、じぶんの言葉でいいから記しておくこと。たんに「歴史に興味がある」とか「手先が器用だから」とか「ちょっと賢くなりたいだけ」とか「生涯学習なんだよね」というのでは、話にならない。かくいうわたしは、面接時に「なんのために大学院を受けたのですか」と訊ねられ「はい、生涯学習のためです」と答えてしまったが、それでも入学を許されたのはマグレとしか言いようがない。「研究者になるつもりはありますか?」という問いに対して、「まさか、まさか」と笑って答えた。いま振り返ると、冷や汗ものである。
第四に、事前に試験慣れしておくこと。実社会でいくらビジネスの経験を積んでいても、限られた時間にセカセカ鉛筆を走らせるテストに強くなっているとは限らない。受験生にとってのテストは、歓楽街における極道の喧嘩や暴走青年たちのカマ切りと同じで、慣れていないとハッタリも利かない。ヘタをすればケガもする。わたしは同居人のアドバイスもあって、TOEFLを何度か受けてみた。だが、このごろのTOEFLはCBT(コンピューター試験)になっていて、鉛筆で小論文を書く院試には不向きである。字の汚いわたしはペン習字のテキストにもお世話になったことを告白しておく。ペンをキーボードに持ち替えて何年にもなると、汚い字はいっそう汚くなっているし、そもそも漢字をわすれている。これって意外と怖いです。
第五に、ふだんから勉強をしておくこと。専門領域の小難しい論文を一人で読みこなすことは難しいかも知れないけど、じぶんが研究したいと思っている領域の著名な研究者の名前と著作くらいは知っておくべきだ。学問に興味のない人に、大学院は何ももたらしてくれないと思う。まあ、世の中には、学問はきらいだけど、学位がほしくてたまらないオッサンと、教育には興味がないがお金は好きという困った学者がいたりして、ときおり事件になる。あと、定年退職後に大学教員になった元マスコミ関係者の中には、学問的にはどうかな、という人もいるので注意が必要だ(むろん素晴らしい研究者に成長できた人もいる)。でも、やっぱり学問が好きじゃないと続かないんじゃないかな。
社会人と大学院(3)2007年12月11日
前エントリーで、エラそうな話をつらつらと書いた。用意周到にこれから大学院を受験しようと考えている社会人には「そんなことくらい知っとるわ」と叱られる程度の内容かもしれない。まあ、わたしの個人的な体験談なのだから、その程度なのですよ。ところで、このごろは大学院を受験するための予備校や塾のようなところもあって、社会人向けのコースもあるようだ。でもねぇ、こういうのってどうなんだろうか。
わたしは、問題意識が明確な社会人は、わざわざ塾や予備校に通う必要なんてないと思う。もちろん、どの大学院に進むかにもよるし、なにを研究するかにもよる。けどねえ、社会人が大学院に進む理由のひとつには、社会人生活を通じてぶち当たった難問とか、立ちはだかるおおきな壁とかを、学問の力を借りて乗り越えようとするモチベーションがあるんじゃないだろうか。自分一人で抱えきれなくなった問い、仕事の現場では捨象されて解決できないを素朴な疑問。そういうの、ありますよね。そういう社会人の学生って、教員の側も面白がってくれると思うし、実社会の経験を学問に再帰させられることことが、社会人の強みでもある。
もちろん、ステップアップやハクつけだけを目的にした社会人もいるだろうし、仕事とはまったくかけ離れたことをしたいという人もいると思う。研究領域にもよるし、人それぞれなので、一般化することはできないけれど、でも、純粋に学問のための学問するのではなく、なぜ自分が大学院でコレを研究しようと思うのか--そんな自問自答を何度もなんども繰り返すことが、いい論文につながるような気がする(あくまでも気がする、ですが)。ある先生が言っていた。「入試の成績が良くても、論文のできがいいとは限らないんだよね」。ソツのなさなんてクソ食らえ的なところが学部との違いかもしれない。
どことなく精神訓話みたいな感じがするけど、意欲や情熱のようなものって、受験のときに提出する志望理由書とか研究計画書とか、小論文のようなものに反映されるんじゃないかな。こういうのをソツなく書く方法を塾やら予備校で教えているのだろうか。かくいうわたしも「研究計画書の書き方」みたいな本を読んでみたことがあるけど、わたしの場合、ペン習字のテキストのほうが、よほど役立ったと思う。
社会人と大学院(4)2007年12月15日
社会人大学院生となった人の何割かは、コウモリのような心理状態になるのではないだろうか。大学の門をくぐった瞬間から学徒気分になるが、職場に戻ると再び元通りのサラリーマンの精神状態に舞い戻る。わたしの場合も、ホンマのじぶんはどっちやねん、という心理状態に陥った。まあ、これはすべての人に言えることではないと思うが……
レクリエーションのような気分で大学院に通う社会人にしてみれば、キャンパスはただの息抜きの場にすぎないだろう。だけど、学問に魅せられてしまった社会人や、大学院内で良き師弟関係に恵まれた社会人にしてみれば、キャンパスのほうが面白くてたまらなくなるはずだ。職場に戻るのはいやだなあという気になる人だっているだろう。もちろん、理想は、現場と学問、実践と理論の両方が触発し合って双方に良い結果を生むこと。そういう例が増えることが好ましいといえる。
ただ、あまたある企業の中には、せっかくの戦力を外部で“アソバセル”ことを快く思わないところもあるようだ。「浮世離れした本を読んでいるヒマがあれば、得意先の一つも回ってこい!」という上司がいたり、部下がじぶんよりも“カシコク見られる”ことを内心恐れて必死のパッチで足を引っ張ろうとする先輩がいたり、社会人院生が持ち帰ったことを無化して「けっきょく無駄だったね」という言説をまき散らしたりする同僚がいたり、、、、いろんなケースがあると聞く。じつによく聞く。ほんとうによく聞く。とくに文系でね(理系は産学協同の美名のもとでいろんな試みがある)。
「○○学位取得者が○○人います」とか「入社後は必ず留学させます」というようなことをウリにしているような一部の企業ではない限り、自分の意思で学問と格闘してみたいと考えている社会人は、そのあたりを心してかからねばならない。もっとも、いろんな軋轢を生んだり、面倒を抱え込むことが分かっているにもかかわらず、それでも大学院の門を叩こうとする健気な社会人をどれだけ受け入れられるかは、大学院側の度量にかかっている。できるだけ受け入れてあげてほしい。リスクの少ない顧客を選ぶという視点ではなく、同志として一緒になって悩んであげてほしい。自分こそが試されていると思ってほしい。
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