カテゴリー「journalism」の240件の記事

2020年12月29日 (火)

2020年に観た映画とドラマ(備忘録)

備忘録としてメモしておきたい。

●映画
『ちむぐりさ』雪国生まれの少女の眼差しを通して本土と沖縄との関係見つめる。観て良かった。
『プリズンサークル』更生とは何か。罪と向き合うとはどういうことか。観ておくべき作品だった。
『はりぼて』議会制民主主義の形骸化を喜劇ふうに暴露して終わり、ではない。テレビドキュメンタリーの快作。
『なぜ君は総理大臣になれないのか』小川淳也議員に長期間密着。こんな国会議員もいる。対象との向き合い方が絶妙。
『ランブル』黒人音楽と考えられている作品のなかに先住民の楽曲や演奏が多いことを教えてくれる。目から鱗。
『パブリック』日本語にないパブリックの意味を公共図書館をめぐるドタバタ劇から学ぶ。市民社会を考える素晴らしい作品。
『行き止まりの世界に生まれて』貧困地域に生まれてしまった子供たちの現実を移民の子が撮影。格差社会の現実を描いた作品。
『ヒルビリー・エレジー』いわゆる貧乏白人の世界から弁護士になり成功した男性の回想録を映画化。日本人が知らないアメリカ。
『コリーニ事件』この事件(小説)によってドイツの法律が改正された衝撃の作品。
『人生フルーツ』晩年をこんなふうに生きられれば、という“しみじみ系”の作品。
『オフィシャル・シークレット』英諜報部の末端職員による内部告発の実話をもとにした作品。ジャーナリスト必見。
『ナイチンゲール』オーストラリアで先住民や女性たちがどのような過酷な人生を強いられたかを告発する勇気ある作品。
『スキャンダル』保守系フォックスTVを舞台にしたセクシュアルハラスメントを実名で描く。なぜ実名で作れるだろう。
『メイキング・オブ・モータウン』R&Bなどの黒人音楽レーベルがビジネスで成功したかが描かれる。
『マイルス・デイヴィス クールの誕生』天才・鬼才といわれる音楽家の人間像に迫る。作品はすごいが人間的にはいやな奴。
『i - 新聞記者ドキュメント』森達也監督が東京新聞の望月記者を追いかける。新聞記者の行動原理や使命感が素直に描かれる。
『三島由紀夫vs東大全共闘』TBSに残っていた映像を映画化。東大全共闘の人たちがすごく魅力的。ただし煙草吸いすぎ。
『シカゴ7裁判』ベトナム反戦運動に参加して起訴された7人市民や学生の法廷劇。正義と政治を考える良作。
『マルモイ ことばあつめ』日帝の支配下にあった朝鮮半島で、辞書を作り言葉を守ろうと奮闘するドラマ。
『愛国者に気をつけろ!鈴木邦男」一水会の元代表の実像に迫るドキュメンタリー。真面目で誠実な人柄にますます惹かれる。
『テネット(TENET)』順行する時間世界と逆行する時間世界をめぐる理解困難な問題作。
『はちどり』平凡な家庭の少女が体験した90年代の韓国ソウルの受験戦争、家父長制、経済成長……などが低い目線で描かれる。
『82年生まれ、キム・ジヨン』おそらく東アジア全域に共通する女性差別をえぐる作品。ベストセラー小説の映画化。
『罪の声』グリコ森永事件をモチーフにした小説の映画化。「城南宮バス停のベンチの裏」が耳に残る。
『男はつらいよ~お帰り 寅さん』満夫が小説家になっていたり、リリーさんが神保町でジャズバーを経営していたり。
『レディ・ジョーカー』2時間ほどの映画で描ききれない作品。渡哲也に物井清三は似合わない。
●2020年に観たドラマ
『プレス 事件と欲望の現場』(PRESS)『ジャーナリズムの道徳的ジレンマ』に通底する話がいくつもありびっくりした。BBC。
『ニュースルーム』(The NEWSROOM)共和党支持を表明するアンカーを中心にしたHBOアメドラ。アーロン・ソーキン作。
『スタートレック:ピカード』(Star Trek: Picard)

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2020年8月20日 (木)

議論を誘発する『赤い闇 スターリンの冷たい大地で』

わたしは仕事柄ジャーナリズムに関する映画は見逃さないようにしていて、授業でも学生に映画を紹介することがあるが、この作品は現役ジャーナリストにはおすすめできる。

映画『赤い闇 スターリンの冷たい大地で』公式サイト http://www.akaiyami.com/

若いジャーナリストを主人公にした『赤い闇:スターリンの冷たい大地』(原題:Mr. Jones)は、ポーランド人の監督のアニエスカ・ホランドが撮った作品で、実在の人物ガレス・ジョーンズの史実に基づいている。ホランドもジョーンズも、日本ではさほど知られていないと思う。わたしも知らなかった。

映画で描かれる世界は、1930年代のスターリン時代のソ連。世界恐慌の中にあって、ソ連だけが繁栄を誇っていることに疑問を抱く若いジャーナリストが、その謎に迫るというストーリー。彼が暴くのはスターリンによって起こされた大飢饉(ホロドモールと呼ばれる)の事実である。

この作品ではいくつもの二項対立が描かれる。まずは、大手メディアの名物記者 vs 若くて無名のフリー記者。前者はピュリッツァー賞の受賞歴があるニューヨーク・タイムズのモスクワ特派員ウォルター・デュランティ。後者は主人公ガレス・ジョーンズ。取材姿勢が全く異なる。

もうひとつは、高級紙の代名詞ニューヨーク・タイムズとウィリアム・ハーストが発行していた大衆紙。この映画でタイムズは外交政策に影響を与える政治的権威として描かれ、一方のハーストは派手な紙面で大衆の世論に影響を与える存在として取り上げられている。

主人公ジョーンズが迫られる選択肢は典型的なジレンマである。ジョーンズは、もし自分がウクライナの飢饉を記事にすれば、不当に逮捕されている6人のイギリス人技師が解放されないと脅される。しかし、もし記事にしなかったら100万人以上のウクライナ人が餓死することも分かっている。つらい選択である。

そのほか、当時の共産主義体制をどう見るかについても、異なる見解が示される。ひとつは、ソ連は壮大な実験の途上にあるという見方、もうひとつはナチスドイツと変わらないまやかしであるという見方。重要な登場人物の一人であるジョージ・オーウェルは当初、前者に近い考えを開陳するが、やがて『動物農場』を書く方向へ変わっていく。

善と悪という単純な図式ではなく、どちらも正しく、どちらも間違っているというような、アンチノミーてんこ盛りなので、たんに「あーおもしろかった」「感動した」ではなく、しっかり議論ができる。ディベートの題材にもなる。

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2020年6月13日 (土)

捜査幹部から賭けマージャンの誘いを受けたら 連載「ジャーナリズムの道徳的ジレンマ」第23回

この問題は、朝日新聞社と産経新聞社の対応は市民の信頼を裏切るものでした。ネットでは「記者も実名さらせ」「クビにしろ」などの書き込みも散見されました。しかし、競合する新聞社や放送局も朝日や産経の対応を淡々と伝えるだけですし、おなじみの識者たちも歯切れが悪い印象です。

産経や朝日の記者たちの「食い込み」ぶりについて、池上彰氏は朝日新聞の連載コラムで「感服」したと書きましたが、同じ思いを抱いた記者も多かったのではないでしょうか。わたしも正直「すごいなー」と思いましたから。

〈case 23〉捜査幹部から賭けマージャンの誘いを受けたら https://keisobiblio.com/2020/06/11/hatanaka23/

もちろん、どの社にも危ない橋を渡ってでもネタを取ってくるスゴイ記者がいて、同僚から尊敬され上司から頼りにされているはずです。なので、今回の件で処分された朝日と産経の記者たちには、自社だけでなく他社からも同情されたのではないでしょうか。

でもそこで「あいつらは不運だった」「現場から外すのはもったいない」といった感想だけで、なんとなく忘れ去っていくのは良くないと思います。ひとつの教訓として後の報道界に申し送りすることもジャーナリストの仕事ですから。

その際、記者たちのマニュアルに「賭けマージャンを禁じる」という1行を追記すれば、一件落着――そんなふうに考える管理職はいないでしょう。かといって「危ない橋を渡るときは自己責任でやってくれ」というのも無責任です(今回の処分は結果的にそういうことです)。

やはり、考えるべき要素を腑分けし、問題をモデル化したりして、議論をしていくしかないと思います。

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2020年5月22日 (金)

取材源の秘匿について-産経新聞「主張」を批判する

5月22日の産経新聞「主張」は「賭けマージャン 自覚を欠いた行動だった」と題して、東京高検の黒川弘務検事長を厳しく批判した。

批判のひとつは、黒川氏が「3密」の要請を無視して遊んでいたことだ。しかも、自らの定年延長にからんで国会が揉めている最中であった。それが「あまりに軽率な行為で、弁明の余地はなかった」と黒川氏を批判した。

もうひとつは、検察官の職業倫理の問題だ。黒川氏の行動は、2011年に最高検が定めた「検察の理念」に記された規範について「自覚を全く欠いていた」と述べた。

そこまでは理解できる。問題はその先の記述だ。

「主張」は、新聞記者も「新聞倫理綱領」を守らなければならず、「本紙記者2人が、取材対象者を交えて、賭けマージャンをしていたことが社内調査で判明し、謝罪した」と記しつつも、「取材対象者」が誰なのかについては明らかにしていない。「取材相手との接触の詳細は、(取材源の)秘匿の対象にあたる」ためだという。

そこで疑問が生じる。今回の問題を考える際に「取材源の秘匿」を持ち出すことで、誰が守られているといえるのだろうかということだ。

取材源の秘匿とは、誰から情報を得たのかを明らかにせずに報道する際にジャーナリズムの側が求めてきた、ちょっと難しい理論だ。いうまでもないが、通常の記事では「○○によると」と、情報源を明らかにするのがジャーナリズムの鉄則である。それは無責任なことを書かないため、つまり、記事が検証に耐えられるようにするための作法である。一般的な報道では取材源は可能な限り明らかにすることが記者のイロハだ。

ただし例外がある。「○○によると」式の報道のように、記事で取材源を明らかにしてしまうと、その人に危険が及んだり、著しい不利益を与えることが予想されるような場合だ。付け加えれば、その人がもたらす情報によって、社会の不公正や不正義が暴かれることが期待されるような場合が重なるときは悩ましい。

そんなとき、ジャーナリズムの倫理は、取材源を秘匿しながら報道することを尊んできた。何が何でも取材源を守れり、注意深く報道せよという要請である。分かりやすく言うと、「チクったやつはだれだ」と脅されても、絶対に言ってはならない。たとえ逮捕されようと投獄されようと、取材相手の信頼に応えることがジャーナリズム倫理――取材源の秘匿の核心である。

週刊文春の報道によると、賭けマージャンは朝日新聞の元検察担当記者と黒川氏を交えて産経新聞記者の自宅で繰り返し行われていて、しかも新聞社のハイヤーで黒川氏を送り迎えしていたという。朝日と産経としては、文春にすっぱ抜かれたわけだ。

そんなみっともない姿をさらしているにもかかわらず、「主張」筆者は、ウォーターゲート報道を連想させる「取材源の秘匿」というカッコいい理屈を挙げて、何がおこなわれたかを明らかにしようとしない。わたしには、そうした言説が、真相を糊塗するかのような二重三重に恥ずかしい行為に映るし、先人のジャーナリストたちが彫琢してきた取材源/情報源の秘匿の論理を毀損し、ジャーナリズム信頼を損なう振る舞いにも思える。

取材源の秘匿は、取材源を守るためのものであり、企業防衛や格好つけのための小道具ではない。

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2020年5月19日 (火)

新聞書評『沖縄で新聞記者になる』

沖縄タイムス社と琉球新報社が、わが人生2冊目の新書『沖縄で新聞記者になる』(ボーダー新書)を書評で採りあげてくれました。本の内容が、両新聞社に勤める/勤めていた本土出身記者のため、もしかしたら採りあげづらいかなあという懸念もありましたが、両紙とも好意的に紹介していただき感謝しています。

沖縄タイムスで評者になってくださったのは普久原朝日さん。普久原さんは元「辺野古」県民投票の会で活動されていた若い沖縄人(ウチナーンチュ)の方です。お目にかかったことがありませんが、写真家としてライターとして多方面で活躍されている姿は本土からも注目を集めています。普久原さんは「沖縄のジャーナリズムだけでなく、沖縄と日本の関係を考えるための重要な示唆を与えてくれる」と評してくれました。そんな言葉をウチナーンチュの論者からいただけるのは光栄です。

https://twitter.com/hatanaka/status/1251440805710987265

一方、琉球新報で評者になってくださったのは打越正行さんです。打越さんといえば『ヤンキーと地元』(筑摩書房)で第6回 沖縄書店大賞・沖縄部門大賞受賞され、いまもっとも注目を集めている社会学者です。建設業や性風俗業などの仕事に就いた沖縄のヤンキーに迫ったすごい研究者です。打越さんは本土の人ですが、わたしよりも沖縄人との深く接触されているため、わたしの沖縄ジャーナリズム観とは異なる見方を示してくれました。とてもありがたい批判です。

https://ryukyushimpo.jp/news/entry-1123494.html

 

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2020年3月30日 (月)

記者たちの省察~『沖縄で新聞記者になる』を書いて

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新聞記者はいったい何を基準に取材対象を選んでいるのでしょう。研究者たちは「ニュース・バリュー」や「ゲートキーパー」などの概念を使って説明するでしょう。「犬が人を噛んでもニュースにならないが、人が犬を噛めばニュースだ」という言葉のように、記者が飛びつく事象と、見むきもしない事象があり、そこにはある種のルールがあります。

そんなニュース報道をめぐるメカニズムについて、わたしも大学の授業で採りあげていますが、それだけでは説明がつかないケースもあります。端的にいうと、ニュースになりにくい/ならないテーマを熱心に追いかける記者たちが少数ながらいるということです。そして、彼ら彼女ら行動原理を説明する理論は、わたしの知る限り見あたりません。

わたしが新聞社に入社した30年ほど前、在日や部落問題を熱心に取材する先輩がいました。少数で特殊な存在でした。一体なぜ彼ら彼女らが差別に取り組むようになったのかを聞く機会もないままに、わたしも、つらい思いをしている人たちの役に立ちたいと考えるようになりました。でも、なぜそんな気持ちになったのか自覚したことはありませんでした。

いわゆる人権の問題に取り組む記者たちの心理とはどのようなものなのでしょう。他人の心はわからないので、わたしの例で考えてみます。新人記者時代のわたしは、下記のような素朴な思いを胸に取材活動をしていたように思います。

《この世界には、権利や自由を踏みにじられている少数者(マイノリティ)がいる。そんな隣人の痛みや苦しさを、多数者(マジョリティ)に伝える必要がある。読者・視聴者の多くは多数者(マジョリティ)だ。多数者が差別問題に関する記事を読めば、少数者の苦痛を想像し、反省する機会になり、やがて少数者の権利が守られるようになる》

ほとんど赤面モノですが、若い頃のわたしは、少数者の苦痛を多数者に教える善きジャーナリストをめざせ、とじぶんに言い聞かせていました。自由や権利を踏みにじられている少数者の側からすると、じぶんたちの理解者であり味方です。対する多数者の側からみれば、あえて「罪の意識」を突きつけてくる、ちょっと面倒くさい記者かもしれません。そして、そういう記者は、わたしが所属した大手メディアでは主流ではなく傍流に置かれることが通例でした。

わたし自身が新聞社で「出世したい」と思ったことがなく、「傍流」にいることに心地よさを感じていましたが、そこには一種の欺瞞があったようにも思います。出世しない(本当は、できない、なのですが)ということは、責任を取らされずに済むということです。エラくなっていく同僚を「上昇志向の奴ら」などと貶し、「こっちは生涯一記者だ」などと空威張りできる気楽な立場です。

一部の少数者団体からは、出世しない記者はむしろ信頼を得やすかったのではないでしょうか。というのも、少数者たちにとって大手マスメディアは体制側の大企業です。そんな企業内で、あえて少数者の困難を報道しようとする記者は「少数者の苦痛を多数者に教える善きジャーナリスト」そのものです。そうした記者はたいていの場合、少数者たちの抗議活動から“免責”されます。

わたし自身も、少数者の団体から「この記者は味方だから」と受け入れられた経験が一再ならずありました。しかし、わたしは道具的な意味で「味方」になることはあっても、被差別や抑圧の実体験をもつわけでもなく、ましてや少数者の同胞でありません。いくら少数者に寄り添おうとしても、「差別する側」「抑圧する側」だという事実から逃れることができません。そのことは薄々わかっていたけれど、そこは見ないことにしていました。

「人権」記者のなかには「善きジャーナリスト」を演じて自己利益のために少数者を利用する偽善者もいると思いますが、そうではないくて、心の内側に生じる反省や悔恨あるいは後ろめたい気持ちを自覚し倫理観に基づいて行動している記者もいるはずです。たとえ、それほどニュースになりにくい/ならないテーマであっても信念を抱いて追いかける。胸中に程度の差こそあれ内省や省察があると思われるのだけど、これまでのジャーナリズム研究ではそこを取りこぼしてきたのではないか――沖縄の新聞社に就職した本土出身者たちから聞き取りをおこない、その成果を『沖縄で新聞記者になる』(ボーダー新書)にまとめた経験を経て、そうした思いがいっそう強まりました。

この問題を考えるのに必要と思った本たち(50音順)
阿部 岳『ルポ沖縄 国家の暴力 米軍新基地建設と「高江165日」の真実』 朝日文庫, 2020
カール・バーンスタイン『マッカーシー時代を生きた人たち : 忠誠審査・父と母・ユダヤ人』日本評論社, 1992(原題:Loyalties: A Son's Memoir, 1989)
河原 理子『犯罪被害者:いまいま人権を考える』平凡社新書, 1999
菅豊『「新しい野の学問」の時代へ:知識生産と社会実践をつなぐために』岩波書店, 2013
鈴木 伸元『加害者家族』 幻冬舎新書, 2010 
報道人ストレス研究会『ジャーナリストの惨事ストレス』現代人文社, 2011
本田靖春『私戦』 河出文庫, 2012 
松村 圭一郎『うしろめたさの人類学』ミシマ社, 2017
森口 豁『沖縄 こころの軌跡 1958~1987』マルジュ社, 1987

 

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2020年3月23日 (月)

『沖縄で新聞記者になる』トークライブ@那覇

3月19日、『沖縄で新聞記者になる:本土出身者が語る沖縄とジャーナリズム』の新刊トークイベントを那覇で開いてもらいました。担当編集者・新城和博さんの司会で、琉球新報記者の玉城江梨子さんと沖縄タイムス記者の阿部岳さんをゲストに、本土と沖縄とメディアについて、熱く楽しく語り合いました。

会場は那覇のライブスペースPunga Ponga(プンガポンガ)で、このイベント自体も経営者・翁長巳酉さんからいただいた提案を、わたしが版元のボーダーインクに相談して開催の運びとなりました。わたしは詳しく存じ上げなかったのですが、翁長巳酉さんはパーカッショニストで、ブラジル在住時には邦字紙記者もしていたというパワフルで素敵なウチナーンチュです。

イベントの主宰は版元のボーダーインク。この会社は沖縄で唯一、新書を作っている出版社で、わたしとは縁もゆかりもありませんでした。わたしは『沖縄で新聞記者になる』 の元になった小さな論文を学部紀要に書いていて、それを携えてボーダーインクの池宮紀子社長に直談判して「ぼくの本を出して」と頼みこみました。怪しい売り込みだったと思いますが、論文に目を通してくれて「新書にしましょう」と応じてくれました。(ボーダーインクに持ち込んでよかったなあと思っています)

イベント司会をしてくれた担当編集者の新城和博さんは、ご自身が沖縄のサブカルチャーシーンを切り拓いた名物編集者で、最近は毎日新聞からメディア時評の執筆を依頼されるなど著名な書き手です。わたしの原稿で伝わりづらい部分を指摘してくれたり、「ここが足りないよ」などと助言してくれ、大いに助かりました。わたしはトークなんて初めてで、戸惑うことも多かったのですが、新城さんの手綱さばきに導かれて、大恥をかかずに済んだように思います。

連日、新型コロナウイルスのニュースでもちきりの時期的に・・・・・・という危惧もあったと思いますが、感染予防の万全の態勢で臨み、雨の夜にもかかわらず満員御礼になりました。多くの人が足を運んでくれたのは、翁長さんや新城さんへの信頼に加え、琉球新報記者の玉城江梨子さんと沖縄タイムス記者の阿部岳さんがゲストとして来てくれたおかげです。記者志望で就活中の学生や現役ジャーナリスト、大学の研究者、さまざまな背景をもつ方にお越しいただきました。

玉城さんは本土出身ではありませんが、この本を作る際に、最初に相談に乗り協力してくれた恩人です。阿部さんは安倍晋三首相の会見で「総理、これが記者会見と呼べるんですか」と声を上げたことでも注目を集めた方ですが、本土出身の立ち位置について自著ルポ沖縄 国家の暴力でも内省されていて、『沖縄で新聞記者になる』でもたびたび登場する重要人物です。

この企画を発案してくれたPunga Pongaの翁長巳酉さんにも感謝申し上げます。新城さん、玉城さん、阿部さん、ありがとうございます。

追記:ちなみに『沖縄で新聞記者になる』の中心的な問いは、勁草書房刊『ジャーナリズムの道徳的ジレンマ』に収録した「CASE:019 宗主国の記者は植民地で取材できるか」に接続します。あわせてお読みいただければ幸いです。

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2020年3月22日 (日)

『ジャーナリズムの道徳的ジレンマ』ワークショップ@新聞労連JTC

3月14日、東京・文京区シビックホールで開かれた新聞労連の若手記者研修会でワークショップを実施する機会をいただきました。研修会の名称はJTC(ジャーナリスト・トレーニング・センター)で、この日が48回目だそうです。これまでに著名な方々が講師を務めているので、とても晴れがましい気持ちになりました(機会をくだっさった執行部の皆様にあらためて感謝します)。

JTCは1泊2日で複数の講座企画がプログラムされ、わたしが担当したパートでは『ジャーナリズムの道徳的ジレンマ』を用いたグループディスカッションを実施。ワークショップ名を「報道現場のモラルジレンマ」として、本の第2章に収録した『CASE:006 被害者が匿名報道を望むとき』の難問をベテラン記者や記者志望の学生もまじえて討議し、発表しました。

時間があれば『CASE:002 人質解放のために警察に協力すべきか』や『CASE:012 取材謝礼を要求されたら』、『CASE:017 同僚記者が取材先でセクハラ被害に遭ったら』も議論したかったのですが、実名/匿名の議論が熱すぎたので、余った時間でリベラル-コミュニタリアン論争やリップマン-デューイ論争、功利主義と義務論などについてミニレクチャーをしました。

振り返ると、現役記者たちが会社の壁や経験の差の別なく平場で話しあう機会はとても貴重だと思います。ベテラン記者がつい上から目線で、新人記者や記者志望の大学生に“教えてあげる”というモードにならないか、じつは内心ちょっと心配していましたが、今回はむしろベテラン記者たちがアタマをほぐす機会にもなったような感触も得ました。

新聞労連の研修会で、わたしはプロの記者たちに、大学の授業に飛び込み参加するよう呼びかけました。 学生たちに教えてあげる、というのではなく、学生たちとディスカッションして、それを仕事に活かしてほしいと思っています。学生たちの大きな学びにもなるし、市民社会とマスメディアやジャーナリズムとの絆を強めることになることは間違いありません。記者の皆さん、ぜひわたしの授業にご参加を。メール:hata@soc.ryukoku.ac.jp

追記:ちなみに勁草書房刊『ジャーナリズムの道徳的ジレンマ』 「CASE:019 宗主国の記者は植民地で取材できるか」は、わたしの最新刊『沖縄で新聞記者になる:本土出身記者たちが語る沖縄とジャーナリズム』 (ボーダー新書)に接続します。あわせてお読みいただければ幸いです。

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2020年2月21日 (金)

3・19 那覇で新刊トークイベント

319_punga_ponga_night 『沖縄で新聞記者になる』の新刊トークイベントで開催することになりました。那覇のブラジル料理&イベントスペース Punga Ponga さんから提案をいただき、大阪人らしく「ワイもいっちょうやったろかぃ!」みたいな気分で挑戦することにしました。琉球新報の玉城江梨子さん、沖縄タイムスの阿部岳さんにご登壇いただき、進行は版元ボーダーインクの新城和博さんにお願いします。

ただ正直なところ、じぶんが見られる側に回るのは得意ではありません。話の流れを読みながら、当意即妙に気の利いた台詞を繰り出したり、会場を沸かせるようなジョークを挟むような経験値は低いです。

もちろん、大学教員になってからは、講義で90分しゃべり続けることもありますし、シンポジウムのパネリストでコメントをすることもあります。でも、それはネタを仕込んでいるからできること。どこから弾がとんでくるわからない言葉のやりとりは、正直こわい。やはり新聞記者出身なので、聞き役のほうが身についています。

せっかく新刊トークをするのですから、ぜひ大勢の方にきていただき、たくさんの質問・異論・反論をぶつけていただきたいと思います。

なお、イベント会場では書籍も販売します。著者のトーク内容とそこからにじみ出る人間性をじゅうぶん吟味したうえで、購入の可否をご判断ください。どうかよろしくお願いします。

Punga Ponga - facebook page

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2020年2月17日 (月)

『沖縄で新聞記者になる:本土出身者たちが語る沖縄とジャーナリズム』出版しました

Photo_20200217164001 沖縄の出版社ボーダーインクから『沖縄で新聞記者になる:本土出身者たちが語る沖縄とジャーナリズム』(ボーダー新書)を出版しました。この本で検討したのは、本土で生まれ育ち沖縄に移り住んで新聞記者になった人たちの、あまり知られていない経験です。

沖縄島には2つの有力な地方紙――琉球新報と沖縄タイムスがあります。この2紙は、戦後の沖縄でいくつも発行された新聞との競争を勝ち抜いてきた新聞です。日本にはほとんどの県に有力地方紙(県紙)が1紙ありますが、沖縄では珍しく2紙が競い合っています。

沖縄の新聞社は、本土の新聞社とはすこし違います。戦後27年間も米軍の支配下に置かれてきたため、社員の県民(≓ウチナーンチュ)の比率が高いのです。戦後沖縄の言論は「沖縄人(ウチナーンチュ)の沖縄人による沖縄人のためのジャーナリズムだった」と言ってよいと思いますが、90年代以降、本土出身者が2紙の試験を受けて記者になる例が徐々に増えてきました。

この変化は、沖縄のジャーナリズムに何らかの変化をもたらしている、と私は考えます。ただ、その前に、わたしとしては、いったいなにが本土の若者を沖縄の新聞社に駆り立てたのか。沖縄で記者になって、なにに喜びを見出し、どんな苦悩を胸にしまってきたのか――を知りたいと思い、いても立ってもいられなくなり調査に乗り出しました。

わたし自身は大阪で生まれ育った本土の人間なので、わたしが「これが沖縄ジャーナリズムだ」とか「沖縄の新聞記者はかくあるべきなんだ」みたいなことを論じる資格はありません。わたしにできることは、沖縄の新聞社に就職した本土出身者を対象とした聞き取りくらいです。

数年前から沖縄に対するヘイトスピーチがおこなわれるようになり、本土と沖縄の心理的距離が広がりつつあります。それは沖縄紙で働く本土出身の記者の立場に直結しています。沖縄の出版社に出版を相談しに行ったのは、そんな微妙な立場の人たちの人たちのことを理解してくれると思ったからです。沖縄の出版社から出た本ですが、本土の現役記者や記者志望の学生にも読んでもらいたい一冊です。

どうかよろしくお願いします。

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