カテゴリー「school life」の140件の記事

2026年7月 8日 (水)

再掲載:「社会人と大学院」 約20年前の記事ですが

 わたしが共同通信社に勤務しながら大学院に入学したのは2004年でした。かれこれ20年以上前のことです。いまでこそ、大学院で研究する記者は増えましたが、あのころ修士号を持つ記者と出会うことはほとんどありませんでした。修士号を取得して少し興奮していた当時の個人的な気持ちを思い出し、約20年前に「社会人と大学院」というエントリーをあらためて掲載します。いま読み返すと気恥ずかしい記述もありますが、それほど古びているように思いません。 
 あれから約20年。フルタイムで働きながら、大学院で研究するのは決して楽ではありませんが、アカデミズムの技法を身につけた記者が増えることは報道メディア全体の底上げになりますし、社会人を受け入れる大学にも良い効果をもたらすことは間違いありません。

★当時の記事はこちらです
社会人と大学院(1)2007年12月07日
 大学院で勉強してみたいと一度でも思ったことがある社会人はかなりいるのではないか。社会人の受け容れに熱心な大学院も増えてきたようで、都市部のビルにサテライトキャンパスを設けたり、土曜日に集中講義をしたりしている。でも、社会人の心理的なハードルは低くない。勤務先が認めてくれるかどうか。同僚に迷惑をかけるんじゃないか。転勤を命じられたら退学せざるを得ない。入試にパスしないといけないが、いまさら受験勉強をするのが億劫だ。学費だってバカにならない・・・それでも大学院に進んでみようという社会人は、明確な目的や強い問題意識があるのだと思う。
 社会人がなんのために大学院に進学するのか。動機は人それぞれだと思う。仕事上の難問を解決するためであったり、研究者になる明確な計画を持っていたり、教養のなさを痛感していたり、たんにハクをつけるためであったり、勤務先で窓際に追いやられたためであったり・・・ 受け容れる大学院側の考えもさまざまだろう。社会人をお客さん扱いするところもあると思うが、社会人だからといって特別扱いしないところもある。じぶんの動機や目的にあった大学院と教員にめぐりあえれば幸せだろう。
 私の経験からいえるのは、働きながら大学院で研究をするということは、それなりの犠牲を伴うということだ。ひとつは健康。研究ほど体に悪いものはない。長時間本を読んだりパソコンの画面とにらめっこをしたり、図書館や自習室にこもったり、座りっぱなしで運動不足になったり。私は目が悪くなり、慢性の肩こりに悩まされ、ときおり腰痛も出る。仕事がおろそかにしていると思われないよう、人一倍仕事をしないといけなくなり、年中疲れやすい状態だ。精神的にも楽ではない。「いい歳して」などと冷やかされたり、ひがまれたり、変人扱いされたり、敬遠されたり、生意気に思われたり、ビビられたり・・・、嫌な思いをすることが意外なほどあった。今後もあるだろう。
 それでも大学院に通うようになって良かったなあと思うのは、わたしの場合、現場の知恵や経験にはない大きなものを発見できたことだ。もやもやした問題意識を整序してアカデミズムの手法を指導してくれる教員との出会いは、なにものにも代え難い。意欲ある社会人には、大学院進学を勧めます。社会人は「売り手市場」ですし。

社会人と大学院(2)2007年12月09日
 わたしは大学院がどのようなところなのか、さっぱり知らずに試験を受けたわけであるが、わたしと同じく働きながら大学院に通ってみたいなあと考えている人のために、極私的なノウハウ(おそまつな失敗談を含む)を記しておこうと思う。なぜなら、大学院で研究をする社会人が増えることは、けっして悪くないと思うからだ。
 第一に、大学院における学生のミッションは論文を書くことだと認識しておくこと。修士課程なら修士論文(M論)。博士課程なら博士論文(D論)。今だから言うが、入学時のわたしは、論文など書くつもりは毛頭なかった。すこし難易度の高いカルチャーセンターに通うような気持ちで、気に入ったゼミや講義にだけ出て、さっさと退学するつもりでいた。しっかりした研究が続けられるとは思っていなかったし、アカデミズムの世界をすこしナメていた。いや、腰が引けていたのかもしれない。結果としてわたしは学問の面白さに引きずり込まれ、夢中になり、なかば意地になって論文を書き、運良く博士課程への進学を許された(強運でした、ホンマに)。これから大学院を受けようと考えている人は、最初から論文を書くつもりでいるほうがいい。いいに決まっている。
 第二に、大学院に入学後、指導教員をすぐに決めなければいけないということをわきまえておくことだ。そういう基本的なことを知らなかったわたしは、入学直後に学務係から「指導教員届」を出せと言われて当惑した。「ここはひとつ、一年目は指導教員なしでどうでしょう」と申し出たが、認められなかった。実をいえば、わたしは入学前から指導教員となってくれたH先生の著書に目を通し、幅の広さと奥の深さに圧倒されていた。できれば指導を仰ぎたいと思っていた。でも人間、目移りはするもので、いろんな先生の研究も知りたかったのだが、「○日までに提出しないと履修登録させぬ」と通告され、大急ぎでH研究室のドアをノックした。むろん正解だった。進学を考えている人は、事前に「この人だ!」という教員に会って、できれば事前に相談してみるべきだ。
 第三に、前項とも関連するが、研究テーマを決めておくことだ。テーマをうまく言語化できなければ、どんな問題意識を持っているのかを、じぶんの言葉でいいから記しておくこと。たんに「歴史に興味がある」とか「手先が器用だから」とか「ちょっと賢くなりたいだけ」とか「生涯学習なんだよね」というのでは、話にならない。かくいうわたしは、面接時に「なんのために大学院を受けたのですか」と訊ねられ「はい、生涯学習のためです」と答えてしまったが、それでも入学を許されたのはマグレとしか言いようがない。「研究者になるつもりはありますか?」という問いに対して、「まさか、まさか」と笑って答えた。いま振り返ると、冷や汗ものである。
 第四に、事前に試験慣れしておくこと。実社会でいくらビジネスの経験を積んでいても、限られた時間にセカセカ鉛筆を走らせるテストに強くなっているとは限らない。受験生にとってのテストは、歓楽街における極道の喧嘩や暴走青年たちのカマ切りと同じで、慣れていないとハッタリも利かない。ヘタをすればケガもする。わたしは同居人のアドバイスもあって、TOEFLを何度か受けてみた。だが、このごろのTOEFLはCBT(コンピューター試験)になっていて、鉛筆で小論文を書く院試には不向きである。字の汚いわたしはペン習字のテキストにもお世話になったことを告白しておく。ペンをキーボードに持ち替えて何年にもなると、汚い字はいっそう汚くなっているし、そもそも漢字をわすれている。これって意外と怖いです。
 第五に、ふだんから勉強をしておくこと。専門領域の小難しい論文を一人で読みこなすことは難しいかも知れないけど、じぶんが研究したいと思っている領域の著名な研究者の名前と著作くらいは知っておくべきだ。学問に興味のない人に、大学院は何ももたらしてくれないと思う。まあ、世の中には、学問はきらいだけど、学位がほしくてたまらないオッサンと、教育には興味がないがお金は好きという困った学者がいたりして、ときおり事件になる。あと、定年退職後に大学教員になった元マスコミ関係者の中には、学問的にはどうかな、という人もいるので注意が必要だ(むろん素晴らしい研究者に成長できた人もいる)。でも、やっぱり学問が好きじゃないと続かないんじゃないかな。

社会人と大学院(3)2007年12月11日
 前エントリーで、エラそうな話をつらつらと書いた。用意周到にこれから大学院を受験しようと考えている社会人には「そんなことくらい知っとるわ」と叱られる程度の内容かもしれない。まあ、わたしの個人的な体験談なのだから、その程度なのですよ。ところで、このごろは大学院を受験するための予備校や塾のようなところもあって、社会人向けのコースもあるようだ。でもねぇ、こういうのってどうなんだろうか。
 わたしは、問題意識が明確な社会人は、わざわざ塾や予備校に通う必要なんてないと思う。もちろん、どの大学院に進むかにもよるし、なにを研究するかにもよる。けどねえ、社会人が大学院に進む理由のひとつには、社会人生活を通じてぶち当たった難問とか、立ちはだかるおおきな壁とかを、学問の力を借りて乗り越えようとするモチベーションがあるんじゃないだろうか。自分一人で抱えきれなくなった問い、仕事の現場では捨象されて解決できないを素朴な疑問。そういうの、ありますよね。そういう社会人の学生って、教員の側も面白がってくれると思うし、実社会の経験を学問に再帰させられることことが、社会人の強みでもある。
 もちろん、ステップアップやハクつけだけを目的にした社会人もいるだろうし、仕事とはまったくかけ離れたことをしたいという人もいると思う。研究領域にもよるし、人それぞれなので、一般化することはできないけれど、でも、純粋に学問のための学問するのではなく、なぜ自分が大学院でコレを研究しようと思うのか--そんな自問自答を何度もなんども繰り返すことが、いい論文につながるような気がする(あくまでも気がする、ですが)。ある先生が言っていた。「入試の成績が良くても、論文のできがいいとは限らないんだよね」。ソツのなさなんてクソ食らえ的なところが学部との違いかもしれない。
 どことなく精神訓話みたいな感じがするけど、意欲や情熱のようなものって、受験のときに提出する志望理由書とか研究計画書とか、小論文のようなものに反映されるんじゃないかな。こういうのをソツなく書く方法を塾やら予備校で教えているのだろうか。かくいうわたしも「研究計画書の書き方」みたいな本を読んでみたことがあるけど、わたしの場合、ペン習字のテキストのほうが、よほど役立ったと思う。

社会人と大学院(4)2007年12月15日
 社会人大学院生となった人の何割かは、コウモリのような心理状態になるのではないだろうか。大学の門をくぐった瞬間から学徒気分になるが、職場に戻ると再び元通りのサラリーマンの精神状態に舞い戻る。わたしの場合も、ホンマのじぶんはどっちやねん、という心理状態に陥った。まあ、これはすべての人に言えることではないと思うが……
 レクリエーションのような気分で大学院に通う社会人にしてみれば、キャンパスはただの息抜きの場にすぎないだろう。だけど、学問に魅せられてしまった社会人や、大学院内で良き師弟関係に恵まれた社会人にしてみれば、キャンパスのほうが面白くてたまらなくなるはずだ。職場に戻るのはいやだなあという気になる人だっているだろう。もちろん、理想は、現場と学問、実践と理論の両方が触発し合って双方に良い結果を生むこと。そういう例が増えることが好ましいといえる。
 ただ、あまたある企業の中には、せっかくの戦力を外部で“アソバセル”ことを快く思わないところもあるようだ。「浮世離れした本を読んでいるヒマがあれば、得意先の一つも回ってこい!」という上司がいたり、部下がじぶんよりも“カシコク見られる”ことを内心恐れて必死のパッチで足を引っ張ろうとする先輩がいたり、社会人院生が持ち帰ったことを無化して「けっきょく無駄だったね」という言説をまき散らしたりする同僚がいたり、、、、いろんなケースがあると聞く。じつによく聞く。ほんとうによく聞く。とくに文系でね(理系は産学協同の美名のもとでいろんな試みがある)。
 「○○学位取得者が○○人います」とか「入社後は必ず留学させます」というようなことをウリにしているような一部の企業ではない限り、自分の意思で学問と格闘してみたいと考えている社会人は、そのあたりを心してかからねばならない。もっとも、いろんな軋轢を生んだり、面倒を抱え込むことが分かっているにもかかわらず、それでも大学院の門を叩こうとする健気な社会人をどれだけ受け入れられるかは、大学院側の度量にかかっている。できるだけ受け入れてあげてほしい。リスクの少ない顧客を選ぶという視点ではなく、同志として一緒になって悩んであげてほしい。自分こそが試されていると思ってほしい。


| | コメント (0)

2025年5月 2日 (金)

1年間、研究に専念します

4月から1年間のサバティカルに入りました。授業や学内行事などから離れて、研究に専念をすることになっています。わたしが研究しようと考えているのは、「人はどのようにしてジャーナリストになるのか」「どのようにすればジャーナリストが育成できるのか」です。これから主要報道機関や関連団体などをを訪れて聞き取り調査をしていきます。

今回の研究では「行為」それ自体よりも、「行為者」に光を当てようと思っています。ジャーナリストは義務論と功利主義の間を行ったり来たりするものだと考えられてきました。ジャーナリストはなにをするべきか/何をしてはいけないのか、という行為への着目です。行為をめぐる研究は重要ですが、徳倫理学では行為者に着目します。ジャーナリストはどうあるべきか、どのような徳が求められるか、です。

どんな成果が出せるか分かりませんが、とりあえず頑張ってみます。

| | コメント (0)

2023年3月30日 (木)

大学の序列と書き手の属性

共同通信社を退職し、龍谷大学に赴任して10年が過ぎようとしている。この間、ずっと不満に思ってきたことを述べたい。不満のひとつは、大学の序列表現。もうひとつはジャーナリストの属性が見えにくいことである。
 
いわゆる「名門」「一流」と形容される大学がある。日本では「東大」を頂点とする旧帝大があり、私学の“上位校”では「早慶」と「GMARCH(JMARCHとも)」があり、関西では「関関同立」という呼称がある。それらは入試難易度、つまり受験偏差値を物差しとする序列であり、その序列が日本社会全般の序列と結びついている。
 
巷では「一流企業に入るため、一流大学を卒業しておく必要がある」といった言葉が当たり前のように語られている。「学力こそが、難関校に進学する唯一の資格」という言葉を信じる人はいまだに多い。だが、学力は子供たちの能力を測る公正で平等な物差しといえるのだろうか。
 
それに1つの解答を与えてくれたのは、マイケル・サンデルの『実力も運のうち―能力主義は正義か?』(早川書房)だ。難関大学入学者の多くは、幼いころから恵まれた環境にあり、低学歴の人には「自己責任」が押しつけられている。これはアメリカに固有の事象ではない。多くの点で日本社会にも共通している。裕福な家庭の子供は、塾や家庭教師など多額の教育投資がなされやすい。社会階層が“上位”の親たちは子供に階層を相続させようとする。高学歴な親をもつ子供は幼いころから知的なものに触れる機会が多く、豊富な文化資本を享受している。
 
経済格差が教育格差を広げ、社会全般の分断を広げていることは、多くの人が実感してきたことだ。近年、ネットで流行した「上級国民」や「親ガチャ」という言葉は、不平等で不公正な絶望的な社会の断面を表している。問題は、そうした不平等で不公正な社会のからくりが明らかになったとしても、それを改善させる手立てが取られていないことだ。公正や平等を偽装した競争に駆り立てる受験の仕組みは改善されるどころか、放置ないし強化され続けている。
 
すぐできることとして提案したいのは、ジャーナリストの属性を明らかにすることである。たとえば、『週刊ダイヤモンド』や『東洋経済』などのビジネス雑誌が、大学のランキングを特集するとき、特集に関わった記者や編集者の出身大学や出身地を正直に明記してはどうか。“上位校”の出身者が作るメディアが、結果として“上位校”を優位に表現していれば、格差を強化するバイアスを測る指標となるはずだ(関西でいえば、「関関同立」という言葉を多用するジャーナリストに関関同立の出身者が多いとすれば、すごくシラける)。
 
さらにいえば、出身校だけではなく、ジェンダーや民族も明らかにしてくれると、もっとよい。そんなふうに思うのは、オンライン版コロンビア・ジャーナリズムレビューで「記者の署名を追跡することが重要な理由(Why counting bylines is important)」を読んだからだ。この記事の著者アンドレア・グリムスは、テキサスに拠点を置く雑誌記者たちの人種や性別の属性や居住地を調べている。だれがテキサスとテキサス人の物語を語っているのかを確かめるためだ。
https://www.cjr.org/first_person/why-counting-bylines-is-important.php
 
パブリックな場に自分の言葉を投げかけるジャーナリストは、まず自らの属性を明らかにして、客観性や公正中立を偽装していないことの証しを立ててはどうか。すべての人に属性があり、すべてのコンテンツにバイアスがある。だれもが自らの偏見から逃れられない。不平等で不公正な社会を改善させるのは、そういう身近なことだし、やろうと思えば明日からでもできる。
 
私がかつて務めていたメディア企業には裕福な家庭で育った高学歴な人が多かった印象がある。印象どころではなく、本当に多かった。近年はそうした歪みは近年すこし弱まっているかもしれないが、自分たちは何者かということを明らかにすることから始めるのは、べつに突飛なことではない。むしろ、それを隠蔽することは読者・視聴者に不信感や無用な疑念を生じさせることにつながるはずだ。
(休眠ブログを久しぶりに更新しました)

| | コメント (0)

2020年12月16日 (水)

卒論審査の基準公開

Photo_20201216231001

数年前に「卒論審査の新方針(剽窃は一発アウト)」というエントリーを書いた。このときに強調したのは、平然とコピペする学生に対する私の考え方である。「添削してください」とメールで送られてきた卒論に朱を入れたりアドバイスをしたりしているとき、悪質なコピペを見つけることが過去に幾度かあったためだ。

このとき私は「他人が書いた文章を、あたかも自分が書いたかのように偽装する行為(剽窃や盗用の類い)が発覚した段階で一発アウト」という方針を立てた。この方針は揺るがないが、私がどのように論文を審査しているかについて明らかにしておきたいと思う。

 

 

| | コメント (0)

2020年3月22日 (日)

『ジャーナリズムの道徳的ジレンマ』ワークショップ@新聞労連JTC

3月14日、東京・文京区シビックホールで開かれた新聞労連の若手記者研修会でワークショップを実施する機会をいただきました。研修会の名称はJTC(ジャーナリスト・トレーニング・センター)で、この日が48回目だそうです。これまでに著名な方々が講師を務めているので、とても晴れがましい気持ちになりました(機会をくだっさった執行部の皆様にあらためて感謝します)。

JTCは1泊2日で複数の講座企画がプログラムされ、わたしが担当したパートでは『ジャーナリズムの道徳的ジレンマ』を用いたグループディスカッションを実施。ワークショップ名を「報道現場のモラルジレンマ」として、本の第2章に収録した『CASE:006 被害者が匿名報道を望むとき』の難問をベテラン記者や記者志望の学生もまじえて討議し、発表しました。

時間があれば『CASE:002 人質解放のために警察に協力すべきか』や『CASE:012 取材謝礼を要求されたら』、『CASE:017 同僚記者が取材先でセクハラ被害に遭ったら』も議論したかったのですが、実名/匿名の議論が熱すぎたので、余った時間でリベラル-コミュニタリアン論争やリップマン-デューイ論争、功利主義と義務論などについてミニレクチャーをしました。

振り返ると、現役記者たちが会社の壁や経験の差の別なく平場で話しあう機会はとても貴重だと思います。ベテラン記者がつい上から目線で、新人記者や記者志望の大学生に“教えてあげる”というモードにならないか、じつは内心ちょっと心配していましたが、今回はむしろベテラン記者たちがアタマをほぐす機会にもなったような感触も得ました。

新聞労連の研修会で、わたしはプロの記者たちに、大学の授業に飛び込み参加するよう呼びかけました。 学生たちに教えてあげる、というのではなく、学生たちとディスカッションして、それを仕事に活かしてほしいと思っています。学生たちの大きな学びにもなるし、市民社会とマスメディアやジャーナリズムとの絆を強めることになることは間違いありません。記者の皆さん、ぜひわたしの授業にご参加を。メール:hata@soc.ryukoku.ac.jp

追記:ちなみに勁草書房刊『ジャーナリズムの道徳的ジレンマ』 「CASE:019 宗主国の記者は植民地で取材できるか」は、わたしの最新刊『沖縄で新聞記者になる:本土出身記者たちが語る沖縄とジャーナリズム』 (ボーダー新書)に接続します。あわせてお読みいただければ幸いです。

| | コメント (0)

2019年11月29日 (金)

『ジャーナリズムの道徳的ジレンマ』重版出来!

Dsc_1122『ジャーナリズムの道徳的ジレンマ』(勁草書房)が2019年11月20日、めでたく「重版出来」となりました。重版とは増し刷り(第2刷以降)のことで、出版業界では「出来(しゅったい)」という言葉を使って表現しています。本書を作るにあたってお世話になった記者や研究者のみなさまに感謝申し上げます。元をたどればこの本は勁草書房編集部ウェブサイト・けいそうビブリオフィルの連載を書籍化したもので、連載時の遅筆・悪筆を辛抱強く支えてくれた編集者にもこの場を借りて御礼申し上げます。

この本は研究書ではありませんし、わたしの主張も述べられていません。献本先の研究者には「なんじゃこれ」「イロモノか」という印象を与えたと思います。あえて、こういう本を作ったのにはいくつか理由があります。ひとつは、論文調の文体で主張を繰り広げても、新聞社やテレビ局の記者やディレクターは読まないだろうと思ったからです。メディアの実務家は学者の権威は利用しますが、正直なところ「現場を知らない外野席のセンセイ」のような印象を抱いています。なので、そういう実務家に少しでも興味を持ってもらえる本にしたかった。もうひとつは、わたし自身が授業で使いたい教科書が見当たらなかったので、いっそのこと自分で作ろうと思いました。

記者をやめてしばらくたってから、ジャーナリズムの現場を悩ます報道倫理のグレーゾーンについて、自分の反省もこめて実務家たちと語りあいたいと思うようになりました。記者時代に青臭い話をすると「そんなヒマがあったら仕事しろ」という圧力を感じたものですが、じぶん自身、仕事を通じた議論が足りなかったように思っています。他方で、メディア不信の広がりには胸を痛めてきました。いわゆる「マスゴミ論」を唱える人はメディア企業の傲慢な点にしか目がいかず、怒りや憎しみばかりが高じて、取材現場の苦悩や涙が見えなくなります。できれば「マスゴミ論」信仰にとらわれた人たちとの対話の回路を閉じたくないと考えてきました。

ところで、若い取材者たちはG・オーウェルがいう〈二重思考〉に絡め取られがちだと思うのです。「業界的には正解」という思考が、じつは社会一般では「非常識」と断じられる例が多いからです。ジャーナリストになりたての若者は、市民道徳と業界の基準との間でもがくのが通例ですが、やがて茹でガエルのように業界人になっていくにつれ、市民道徳との距離を広げてしまうのではないでしょうか(私もかつてその端くれでした)。

そもそも、加害者や被害者の実名/匿名の問題は「京アニ事件」によって初めて浮上した問題ではなく、何十年も前から報道現場に突きつけられてきた課題でした。取材謝礼の問題や、原稿の事前チェック、ハラスメント被害などの類いも、振り返ればこれまで数え切れないくらいありました。しかし、それらはどのように受け継がれ、教訓とされてきたかというと、かなり心許なく感じられます。「のど元過ぎれば熱さを忘れる」という諺がありますが、過去の事例であれば安心して熟慮・熟議の対象にできるはず。私はこの本でそんな事例を20ほど(正確には19)を集めました。

わたしはこの本を本務校の「メディアと倫理」という授業の教科書に指定し、ワークショップ形式の授業をおこなっていて、2019年度は他大学や他学部からの受講生も含めて250人が履修してくれました(昨年度は17人でしたが)。授業ではアンケート形式で学生にスマホで自分の見解を入力してもらい、リアルタイムでスクリーンにグラフを表示させたり、マイクを回して意見交換したりしています。一方通行の講義ではないので、不規則発言もあれば、思わぬ方向に議論がそれることもあり、わたし自身の勉強にもなっています。

トロッコ問題にみられるように、道徳的ジレンマの思考実験は通常、絶対的に正しい唯一の「正解」がありません。わたしが授業で重視しているのは、他者が示した「正解」を論破して沈黙させることではなく、複数ある「正解」のうち自分はどういう筋道でその「正解」にたどり着いたかを、社会理論やジャーナリズム研究の仮説を動員して理性的に論じること。そして、他者の見解に真摯に耳を傾けることです。

現役ジャーナリストのみなさん、ワークショップ形式の勉強会を開催するなら、気軽にお声がけください。もちろん興味のある方は授業にもぐりに来て、学生たちの、つまり普通の市民の倫理観や道徳感情に触れてみてください。じぶんがどれくらい業界内の論理に染められているかが実感できると思います。

| | コメント (0)

2019年11月 7日 (木)

ゼミ学生の推薦状

就活のシーズンになると、大学生たちは授業を休みがちになり、教員としては怒り心頭の連続なのですが、ことしは心に残った珍事がありました。ゼミ生の1人が神妙な顔をして「先生、わたしの推薦状書いてください」と頼んできたのです。その会社では、かならず提出させている書類のひとつだそうです。ちょっと頭にきましたが、さすがに断れません。

会社側の思惑か容易に分かりました。就活の現場は、いわば「キツネとタヌキの化かし合い」です。学生たちにしてみれば、自分がいかに優れた人材であるかをアピールしなければなりません。平然と嘘をつく応募者もいるでしょう。企業側も学生が話を“盛って”いるのを分かっていると思いますが、嘘をつきすぎて心身のバランスをこわす学生もいるくらいで、笑っていられません。

ところで、企業側からすれば、わずか数回の面接で学生を評価するのはリスキーです。採用する側としては、心配なので何度も何度も学生を呼び出して面接します。おかげで大学の授業は妨害されます。そんな愚かなことをするくらいなら、ゼミ教員に「この学生はどう評価しますか」と聞くほうがましだと思います(さすがにバイト先の店長さんとかに聞けませんわね)。

龍谷大学社会学部コミュニティマネジメント学科の場合、学生と最も長時間接しているのはゼミの教員です。3年から4年にかけてまるまる2年間学生たちと接し、論文指導もします。ゼミ合宿をしたり、他大学と合同ゼミをやったりします。どの学生が賢いのか、どの学生がゼミ長などの役割を厭わずに務めているのか、どの学生がムードメーカーとしてゼミを下支えしているのか……まあある程度わかります(ポジティブな評価だけでなく、その気になればネガティブな評価もできますけどね)。

企業の採用担当者は、学生を何度も何度も呼び出して学業を阻害するのは止めて、ゼミ教員に問い合わせてみてはどうでしょう。企業側は学生が盛った「嘘」を見破れるし、私も授業妨害を防げます。いかがでしょう。連絡先はこちらです→ hata@soc.ryukoku.ac.jp

さんざん授業妨害してくれた企業が学生に「おいゼミ教員に推薦状書かせろ」と要求するようなケースでは、さすがに突っぱねますけどね(笑)

| | コメント (2)

2019年6月 5日 (水)

授業で『ジャーナリズムの道徳的ジレンマ』を使う方法 連載「ジャーナリズムの道徳的ジレンマ」第22回

全国の大学で、メディアやジャーナリズムに関する講義がおこなわれています。授業の名前は大学によって「マスコミ論」「メディア論」「取材学」「新聞論」「出版論」「放送論」など異なっています。私は本務校の龍谷大学社会学部で「現代ニュース論」「メディアと倫理」を、大学院では「地域メディア研究」などの授業を担当しています。 51hqhwugil_sx348_bo1204203200_

授業で『ジャーナリズムの道徳的ジレンマ』を使う方法←click!

「現代ニュース論」は、今年度も受講者が180人にのぼったので講義形式にしていて、マスコミュニケーションの代表的な理論のほか、時事問題について討議を交えて考えるようにしています。もう一方の「メディアと倫理」という授業は、受講者数がちょうど良かったので『ジャーナリズムの道徳的ジレンマ』を教科書に指定して、グループワーク型の授業をおこないました。

学生の側から見れば、 講義形式の授業は体系的に整理整頓された情報を効率的に吸収できます。これに対し、グループディスカッションなどを取り入れたワークショップ型の授業は、彼ら彼女らが授業の主役として参加するため、内容が記憶に残りやすく、その場で頭を使うタイプの「学び」に向いているようにます。ちらも一長一短といえそうですが、同僚の教員たちによると、近年の学生にはワークショップ型の授業のほうが人気だそうです。

そこで、わたしが『ジャーナリズムの道徳的ジレンマ』をどのようにして授業で使っているかについて、けいそうビブリオフィル(勁草書房編集部サイト)に新しい記事を投稿しましたので、もし授業で使ってくださる他大学の先生がいらしたら参考にしていただきたいと思います。同時に「いやいや、こういう使い方もあるよ」というアイデアがあれば、教えていただきたいと思っています。授業のやり方については、わたし自身が試行錯誤の連続ですので。

| | コメント (0)

2019年4月15日 (月)

教授になりましたが

2019年4月1日に准教授から教授になりました。共同通信社に辞表を提出し、2013年度に龍谷大学に准教授として拾ってもらい丸6年目がすぎました。運が良かったと思っています。

同時に、後ろめたさも感じています。有能な研究者たちが大学教員の仕事を得られず、なかには将来に絶望して命を絶つ人もいる。そんな状況のなかで、じぶんが専任教員でいられることを素直に喜んでいいのかどうか。。。

報道を掲げるメディア企業にも非正規雇用のスタッフが増えています。番組ディレクターや取材記者を派遣する会社もあります。業務委託記者の募集広告もよく見かけます。「同一労働」をしている正社員と非正規雇用スタッフは「同一賃金」ではありません。大学業界も同じで、非常勤講師と専任の教授の報酬はまったく異なります。

とっても嫌な言葉ですが「勝ち組」と指さされる記者や学者に、格差社会を客観的に報じたり論じたりする資格があるでしょうか。

東京大学の入学式で上野千鶴子先生の祝辞が波紋を広げました。たしかに、努力しても優秀でも人格者であってもちっとも報われないことなど珍しくありません。そんな世の中で、自分が享受している立場を「当然」と受け止めるなんて、私にはできません。

| | コメント (0)

2018年10月31日 (水)

「朝日ぎらい」を変える

「もう、『マスコミが悪い』と突っ込まなくなりましたよ」。先日、ある市民講座のあとで受講生からそんなコメントをもらい嬉しくなりました。その方は、学生時代に『朝日ジャーナル』や『世界』の読者だった団塊世代で、いつしかすっかり「朝日ぎらい」に。わたしの授業が変化の契機になったとすればうれしいですね。

龍谷大学の公開講座「RECコミュニティカレッジ」

わたしは、龍谷エクステンションセンターが運営する市民講座で「ジャーナリズムの道徳的ジレンマ~報道現場の難問を考えるワークショップ」という授業を担当しています。この授業は、報道倫理の難問をさまざまな角度から考える一種の哲学カフェです。わたしの主な役目はお題の提供とタイムキーパー。受講生同士が小グループに分かれて意見を聴き合い、最後は各グループでまとめた意見をクラス全体で共有するというのが授業の流れです。

対話型の授業は、いわば「文殊の知恵」的な解を求めるというよりも、むしろ、意見の違いを際立たせ、異なる意見を尊重しあうことに力点を置きます。「論破」とはまったく違うスタイルです。

続きを読む "「朝日ぎらい」を変える"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧