2004.11.03
Caught in Between
国際情報政策に関する授業の後、大学院内で催されたワークショップに飛び入り参加した。いつもは5限目の授業が終わると、さっさと職場に戻り仕事をするのが「お約束」だが、たまには大目に見てもらってもいいだろう、と足を運んでみた(許せ、同僚諸兄!)。
東京大学大学院・情報学環<戦争とメディア>プロジェクト
「Caught in Between~『故郷(くに)』を失った人々の物語」上映と映像作家リナ・ホシノさんを囲むワークショップ
なんの事前知識もなく、ボケーっと見はじめたのだが、ずんずんのめり込み大いに考えさせられた。正直いうと、学内で配布されていたパンフレットをチラっと見たとき、《いわゆる日系アメリカ人の強制収容所にまつわる暗い話》を想像した。でも予想は大はずれ。描かれていたのは〈9・11〉によって再び姿を現した米国社会の裏面を、少数者の目を通して映したものだった(とわたしには思えた)。
ホシノさんは「9・11以降、マスメディアが伝えようとしないことがたくさんあった」と話した。2001年9月11日の「米同時多発テロ」が起こってから、少なからぬイスラム教徒の人たちが次々と拘禁された。そのことを米国のマジョリティは支持し、あるいは見て見ぬふりをした。米国を〈home〉と思っていたマイノリティたちは、「帰れ」と罵られても、帰れる場所がない。そうしたアメリカ社会の変わりざまが、内外にどれだけ伝えられただろう。
マスメディアがどのように伝えていようとも、サンフランシスコの日系人にとって“ムスリム排除”は他人事ではなかった。なぜなら、9・11以降のアメリカ社会は60数年前の〈パール・ハーバー〉以降の日系人へのバックラッシュ(backlash)に通じる素顔を見せていたからだ。ブッシュ大統領も「パール・ハーバー」を口にし、一連の自爆攻撃をかつての旧日本軍になぞらえていた。60数年前の日系人は自らの運命を「しかたがない」と受け入れたことへの忸怩たる思いもある。そんな中でリナ・ホシノさんはカメラを手にした。
"Caught in Between -- What to call home in times of war" は日系人がイスラム教徒と手を取り合うようすを描く。ムスリムたちは日系人が受けた差別や抑圧を知り、一緒に「ツールレイク強制収容所(Tule Lake camp)」を訪れて交流する。ささやかかもしれないが、記録にとどめておくべきマイノリティたちの姿が収められている(ネタバレになるといけないので、内容についてはあまり書かない方がいいだろう)。
この作品を見ながら、マイケル・ムーア監督『華氏911』が脳裏をよぎった。ブッシュ大統領の無能ぶりをあげつらったプロパガンダ映画を見たわたしは、笑っていいのか怒っていいのかよくわからない複雑な気持ちになった。でも、"Caught in Between"を見たわたしは、どこか良い気持ちになっていた。日系人たちが善い活動をしていたからだ。日本になにがしかのルーツを持つ人々が不当な差別に苦しむムスリムに手をさしのべる。そんな美談を素朴にうれしく思っていたじぶんを発見し、冷や汗をかいた。(ホシノさんは美談を紹介するためにこの作品を撮ったわけではないと思う)。
もうひとつ発見できたのは、わたしが漠然と考える「日系人」と、今日のサンフランシスコ日本人町の人たちの姿とは大きく異なるということだ。ホシノさん自身、日本人の父と台湾人の母の間に生まれているし、映画に出てくる日系人のなかには、ムスリムのベールをかぶっている人もいた。どの人も複雑なバックグラウンドを持っている。時は流れ、人は混じり合い、文化や宗教をまたいでゆく。人々のアイデンテティは揺らぎ、カテゴリーは使い物にならなくなる。ホシノさんたちは自らのことを「Nosei」と呼ぶ活動をしている。1世でも2世というカテゴリをひっくりかえす表現なのだそうだ。日本でマジョリティとしてのーんびり暮らすわたしなどよりも、彼ら/彼女らは厳しく試され、問いつめられ、鍛えられるのだろう。
ホシノさんは、これから11月いっぱいかけて日本各地をかけまわり上映会をする。日米のマスメディアが伝えないものを伝える活動は、オルターナティブなジャーナリズム活動といっても差し支えない。多くの人に見てもらいたい。
(吉見先生、村上先生、関係者のみなさん、どうもお疲れさまでした)
■"Caught in Between -- What to call home in times of war" official site
■root-bサイト CIB日本ツアー2004の上映スケジュール
■毎日新聞ユニバーサロン記事
■アジア系アメリカ人研究会のページ
■ViVa!(ボランティアとNPOのコミュニテイィサイト)イベント欄
2004.11.03 in cinema (映画), democracy (民主主義), journalism (ジャーナリズム) | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック
2004.10.31
岡本薫さんの講演会
複写と著作権メーリングリストのオープンセミナーが30日に東京・中野で開かれ、同居人と一緒に参加した。参加したというと、何か熱心に議論をしに行ったみたいだが、あくまでも軽い気持ちで聴いていただけ。とても消極的な参加である(末廣さん、ごめんなさい)。
セミナーの講師は、文部科学省企画・体育課長で前著作権課長の岡本薫さん。「『自由』と『民主主義』と著作権」と題する、2時間近い熱演。マシンガンのような話しぶりに圧倒された。岡本さんの『著作権の考え方』(岩波新書,2003) はずいぶん前に読んでいたが、ナマでお目にかかるのは初めて。いつも思うのだが、活字を通してしか知らない人を、実際に間近で見てナマの声を聞くことはとても大切だ。テキストを読んだときにわたしのなかで膨らむ著者像がガラガラ崩れてしまう--そんな面白い体験ができる。今回も「へえー、こういう人なんだ!」という体験ができて嬉しくなった。
・著作権者は権利強化を願う(印税や使用料をどしどし増やしたい)
・利用者や産業界は権利の緩和を願う(無料で利用したい、させたい)
・著作権に関わるすべての人は現在の著作権法に不満を抱いている
・いずれの立場の人は幸福を追求する→エゴが拡大→他者を否定する独善
・利害が対立する社会=民主主義が前提とする社会=討議の必要=respect for others
・現代社会は1億総クリエーターで総ユーザー
・著作権法は善ではなくルールであり、調整のツール
要点を乱暴に抽出すると、こんな感じの話だった。「著作権課長」というポストは、さまざまな利害が衝突する交差点。在任中はさぞや大変だっただろう。わたしが今回、岡本さんがエライと思ったのは、専門用語を極力使わずに分かりやすく話されたこと。そして“役人=全体の奉仕者”という当たり前のことに自覚的でいらしたこと。(このところ、社会学の論文を読む機会が増えていて、その多くが悪文であるため、きちんと伝える努力をしている人を見ると無条件にエライと思ってしまう)
気になったこともある。岡本さんはわたしのような門外漢のド素人に配慮して、面白そうなエピソードを散りばめて講演を組み立てていた。その中で、大丈夫なのかなというような話もあった。じっさい、岡本さんが言及した<事件>の関係者が会場にいたので、小心者のわたしなどはハラハラさせられた。また、ある新聞社が記事データベースの表現を、印刷当時と違う内容に書き換えているという<事件>は、だれも指摘はしなかったけど、その新聞社の関係者が会場にいれば聞き捨てならなかっただろう。ああいう話し方をすれば、その新聞社が記事をコッソリと“改ざん”しているようなウワサが一人歩きするはずだから。岡本さんお得意の表現を拝借すると、岡本さんには相当の「覚悟」があるのでしょう。
■岡本薫(2003-2004)『著作権の考え方』岩波新書(bk1|amazon)
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2004.10.31 in books (本), democracy (民主主義), journalism (ジャーナリズム), law (法律), media (メディア) | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック
2004.10.25
ライターとジャーナリストの距離
サイエンスライターの育成を支援しようという国の計画が、ちょっとした話題になった。文科省の科学技術・学術審議会の部会が骨子案にまとめたという記事が2004年10月20日に報じられ、その後、さまざまな反応がウェブログや掲示板、ウェブ日記などで見られた(参考)。対象が「サイエンスライター」と限定されるが、足元の業界を考えるうえで興味深い話題である。
「サイエンスライター」という言葉からわたしが最初に連想したのは、スティーブン・ジェイ・グールドやカール・セーガン(ともに故人)、リチャード・ドーキンスといった人たちだ。科学者としての知識や経験を生かして、事象や現象を解説をしたり、啓発活動をしたり、世論を巻き込んで論争したり、必要があれば警鐘を鳴らしたり--そんな役割をする知識人。それがサイエンスライターだよな、とわたしは思っていた。だけど、必ずしもそうではなかった。
日本には「サイエンスライター」「科学ライター」という“ライター系”の人がいるかと思えば、「科学ジャーナリスト」「サイエンス・ジャーナリスト」という“ジャーナリスト系”の人たちもいる。文章がとびきりうまい科学者もいれば、科学者顔負けの知識をもつ物書きもいる。そのほか「新聞社の科学部記者」「科学雑誌の編集者」という人たちもいて、そういう人がサイエンスライターなどと呼ばれる機会もあったりする。科学者やその業界に向けて情報発信する人もいれば、一般ピープルに向けてやさしく書く人もいる。もっといえば、科学を否定する反科学みたいな運動をする人が科学評論家みたいな名刺を持っていたりすることもある。いろんな立場があるわけだが、わたしが関心を持っているのが、最初に書いた“ライター系”と“ジャーナリスト系”の距離である。
この二者がどう違うのかというと、“ジャーナリスト系”の多くは、ジャーナリズム活動をしているという自覚があり、それを周囲にきちんと表明している人たちだということだ。たとえ対象が科学分野だといっても、取材源を秘匿するためには逮捕も辞さないと心に誓っていたり、ペンが険よりも強くあるべしと思う…… そんなジャーナリズム活動に身を投じているという人たちだ。
もう一方の“ライター系”を自認する人は、「ジャーナリスト」たちとはちょっとスタンスや立場が違う。彼ら/彼女らがジャーナリズム活動をしていないかというと、必ずしもそうではない。でもあえて〈表現の自由〉とか〈民主主義〉とかを声高にさけぶ必要がない人が多いような気がする。あるいは、そういうことを口にすることに恥じらいを覚える人とかも、ライター系に入るような……。
もう一つ言えるのは、この国で「ジャーナリスト」という言葉が妙な捉えられ方をしていることだ。「あんなニセモノが『ジャーナリスト』を名乗っとるのなら、ワシは『一介のライター』で構わんよ」「あんなエセ・ジャーナリストと一緒にされたくないからフリー記者でいいんです」…そんなセリフをいうフリーライターはけっこういる。ビール会社の宣伝に「国際ジャーナリスト」が登場したり、原発が必要だと思うな、と政府公報で訴えた「ジャーナリスト」がいたりしたことも微妙に影響している。いずれにしても、わたしたちの足元にあるニッポンの業界では、なーんとなーく「ライター」よりも「ジャーナリスト」のほうがエライという妙な風潮があることも事実なのだ。
そこで、国がサイエンスライターを育てる、などというと、それぞれの立場の人が想定する「サイエンスライター」というものが、てんでバラバラになる。とくに、社会正義とか民主主義といったものを背負うジャーナリストたちは、国がライターを育てるという発想には耐え難いようだ。なにもジャーナリストを国が教育しようと言っているのではないのだから、目くじらをたてることもなかろうて、などと思うのだけど…。
いずれにしても日本では、ジャーナリストとライターの間にちょっとした溝がある。また、伝統的メディアで働く人と、そうでない人との間にも確執がある。また、学者・専門家と取材者との間にも見えない壁がありそうだ。そういう人たちがコミュニケーションの重要性を説いていたりするのは、ちょっと滑稽かも、と思うきょうこのごろ。
2004.10.25 in journalism (ジャーナリズム), media (メディア), science (科学) | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック
2004.10.23
ケツから突っ込め
オンナ記者が増えるとジャーナリズムは変わるのか? 今週の水曜日、そんな内容のゼミ発表をした。順番でお鉢が回ってきたわけではない。じぶんから手を挙げて「やりまーす」と言ったのだ。
課題文献は次のとおり。
van Zoonen, Liesbet. (1998) `One of the Girls? The Changing Gender of Journalism' , in C. Carter al. (eds) "News, Gender and Power", pp. 33-46. London: Routledge
「One of the Girls?」なんていう題を見ているとカンタンそうだし、分量も10ページあまり。準備にかける時間も労力も少なそうだ… そんなふうに思えたのはその日の夜まで。たしかに分量は多くない。でも、いちおう英語論文(ウィットに富んだ表現もあったそうだけど、なにがオモロイのか分からなかった)。かつて部落差別問題を取材したことはあったけど、フェミニズムについては門外漢。なーんも分からんというのは悔しいので、限られた時間内でできるかぎりの努力をしてみた。
分かったこと。一言でいえば、リスベット・ファン-ゾーネンは「オンナ記者が増えればジャーナリズムは変わる」という主張を痛烈に批判をしていた(と断定できるほど自信がないけど…)。これは意外な展開だった。なんか予想を裏切られたような気がした。煙に巻かれたような感じというほうがピッタリくる。わたしだって《オンナ記者が増えれば業界は変わる》式の考えを素朴に信じていたからだ。
もう15年以上も昔、整理記者からこんな話を聞いた。「さあ降版というときに事件が発生して、20行ほどの一報が飛びこんできたとしようか。そんなとき、むかしのデスクなら『こら、ケツから突っ込め!』と現場を怒鳴りあげたもんだ。だけど、整理部に女の記者が来てから、そういう表現はなくなったね……」。彼によると、オトコ記者はオンナ記者の目を大いに意識した。オトコばかりの世界がいかにヘンなのかを、たった一人のオンナ記者の存在で思い知らされたというのだ。(むろん、あちこちの現場に配置された“第1号”のオンナ記者が味わった苦労も想像に余りあるのだけど)
ファン-ゾーネンによると、ジャーナリズムがヒューマン・インタレストに重きをおき、ある意味でフェミナイズしていったのは、オンナ記者が増えたからではなく、市場優先ジャーナリズムの拡大がオンナを必要としたためだという。フェミニニティ(女らしさ?)って、いったいなんだろう。これは部落差別のアナロジーがそれほどうまく当てはまりそうにない。うーむ、難しい。でも、この授業を通してジェンダーやフェミニズムに詳しくなれるというのは結構うれしい。
■Liesbet van Zoonen official site
2004.10.23 in democracy (民主主義), journalism (ジャーナリズム), media (メディア), sociology (社会学) | 固定リンク | コメント (3) | トラックバック
2004.10.09
Community? Public Sphere?
湯川さんの「ネットは新聞を殺すのかblog」で、"ジャーナリズムの定義"についての記事が紹介されていた。「定義する」というのは、とても危うい作業だと思うが、Jonathan Dubeという人がCyberJournalist.netに書いている内容は、示唆に富んでいた。
Journalism = Community = Democracyと題する記事は、インターネットが米報道機関に与え続けている影響を振り返りつつ、次のようなかっこいい言葉で締めくくっている。
If you try to separate journalism from community and democracy… Well, then, it may be news, but it's not journalism.
そこで思うのですが、community って何でしょうか。わたしたちも日本語で(カタカナで)よく「コミュニティ」って言いますけど、わたし自身の職業生活を振り返っても、コミュニティっていうものをそれほど意識したことはなかったんですよ。県版にいい記事を書くこと? 地域社会に貢献すること? うーむ、なんかしっくりこない。むしろ、ハーバーマスの「公共圏」に近いのかな。公共の利害に関係するテーマをきちんと選択して記事にすること、と言い換えられるかなぁ。ちょっと自信ありません。
いずれにしても、いつもこういう記事を人に見つけてもらうのではなく、じぶんでも探さなけれいけませんわね。いまさらながら“オンライン・ジャーナリズム”を考えるときに、やはり英語は達者なほうがラクでしょうね。
2004.10.09 in democracy (民主主義), journalism (ジャーナリズム), media (メディア), sociology (社会学) | 固定リンク | コメント (2) | トラックバック
2004.09.27
映画『華氏911』をどう見るか(修正・再掲載)
遅ればせながら、マイケル・ムーア監督『華氏911』を観た。映画館に行ったのは9月半ばだったけど、草津温泉でのんびりしていたため、今ごろになってこれを書くことになった。ただ、なにをどう書くか迷った。映画そのものよりも、映画についてのコメントが気になって仕方がなかったからだ。ネグろうかと思ったけど、人々のコメントとともに、わたしにとっての華氏911を記録にとどめておきたい。
まず、東浩紀さんのブログ(hirokiazuma.com/blog)から引用する。
『CODE』も『ボーリング・フォー・コロンバイン』も、深刻な社会的問題(前者では情報管理強化の、後者ではセキュリティ強化の問題)を明らかにしたものの、決して安直な解決策は与えてくれない、しかしそれだけに私たちを思考へと誘ってくれたすぐれた作品でしたが、『FREE CULTURE』と『華氏911』では悪者ははっきりしている(前者はRIAAとその仲間たち、後者はブッシュとその仲間たち)。結果として、この両者は、アジテーションとしてはすばらしいのかもしれないが、そのような「わかりやすい物語」を語ってしまう点で、別の危険性も備えている。レッシグにしろムーアにしろライアンにしろ、彼らの言説が単純になってしまうのは、それだけ現実のほうが悪化していることの証左でしょう。それはそうなのですが、彼らと別の国にいる私たちは、少し冷静に距離をとるべきかもしれません。わたし自身、多くの人がすでに見たあとで映画館に足を運んだため、かなりの先入観を持って臨んだといえる。だが、見終わった直後の感想は「一部の人が寄ってたかって貶すほど悪くはないよ。むしろ良い、とても良い作品じゃないか」であった。いったいどこが「良い」のかというと、この作品がマスをちゃんと相手にしていること。わたしなどは単純だから、ドキュメンタリーというとついつい、(1)地を這うような地味な取材をもとに撮影され、(2)演出や創作性を排した地味の極北にあって、(3)知識人は見ているが大衆はその存在にすら気づかない--そんなイメージを抱いている。だけどムーアの『華氏911』が放つメッセージは、きちんと大衆に届いている。これはとても重要なことだ。
(http://www.hirokiazuma.com/archives/000102.html、2004年09月18日)
ただ“知識人”以外の人にも鑑賞できるということは、内容が大幅に単純化されてしまっていることでもある。「ブッシュ=悪」あるいは「ブッシュ=アホでマヌケ」というメッセージばかりが強調される。複雑で多様な世界がみょうに単純化されることに、“知識人”にはとても危険に映るはずだ。東さんはそうしたことを踏まえたうえで、「それだけ現実のほうが悪化していることの証左でしょう」と見て取ったが、たしかにイラク情勢はいっこうに好転しそうにない。
『華氏911』をもっとも早くから絶賛していたのは、映画評論家の町山智浩さんだ。町山コメントはすでに多くに人が読んでいるだろう。なにを今さらと言われるかも知れないが、とても力強い発言なので引用させていただく。
目の前で人が死んでいくのを止めるため、ありとあらゆる手段を尽くしている男を見ながら、したり顔で腕を組んで「映画としては…」なんて「批評」してる場合か?(中略)それをなんとか止めようとしている映画に「うーん、これは映画としてアレですね」なんて偉そうに言ってる場合か?
(町山智浩アメリカ日記、http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20040625)
こんなことを先に書かれてしまったら、技術論とかドキュメンタリー論ができなくなってしまうだろう。「おまえはブッシュを肯定するか、否定するか」「おまえは反戦か、好戦か」。正直、そんな詰問されているような気がした。好戦ブッシュvs.反戦ムーア。だけど、たしかに人が目の前で次々と殺されている最中に、芸術論をぶってみたところでクソの役に立たないのは間違いないのは間違いない。
実をいうと、映画を観る前、わたしは同居人と一緒にあるシンポジウムに足を運んだ。9月4日(土)に神楽坂で開かれた「That's Japan連続シンポジウム/サブカル「真」論3/世界を活写するための映像表現」。宮台真司さん、映画監督の森達也さん、映画評論家の松田政男さんの鼎談があり、わたしは松田さんの発言にカチンときて席を立った。一言一句を覚えているわけではないが、松田さんは『華氏911』について「あまりに稚拙」「メタファーがない」というような発言をしていた。日本には優れたドキュメンタリー作品がいくつもある。しかし『華氏911』はそのようなレベルに達していない、という批判である。
むろん、松田さんは何のためらいもなく酷評したわけではない。複雑な表情でシブイ表情で語っていたので、切り出したコメントが松田さんの本意をすべてではないだろう。だけど、そんとき松田さんに対し、「なら、手本を示してみろよ」「ムーア以上のものを作ってみろ」と意地悪を言ってやりたくなった。わたしは町山さんに感化されたわけではないし、むしろ距離を感じているのだけど、松田さんよりも町山さんのストレートな物言いに好感が持てる。
ゴダールは映画を観もしないで「ムーアは中途半端な知性だ」とか言ってくさしたそうだが、知性なんてどうでもいいだろ!ゴダールはベトナム戦争のとき、散々騒いだけど結局戦争を止められなかったじゃないか。いや、ベトナム戦争の時、世界中であれだけの芸術家や学者がよってたかってアメリカを撤退させようとしたが、結局できなかったじゃないか。でも、もしかしたら、一人の男が作ったたった一本の映画が大統領の暴挙を止めることができるかもしれないのだ。一本の映画が、何百何千という人の命を救うかもしれないのだ。歴史上、多くの宗教家や哲学家や芸術家やロックミュージシャンが戦争に反対してきたが、実際に止めることに成功した人はどれほどいるのだろうか?でも、もしかしたらそれが初めて実現するかもしれないのだ。その証拠に、IMDbのコメント欄の妨害運動をすさまじさを見よ。これほどまでに恐れられた映画があっただろうか?
(町山智浩アメリカ日記、http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20040625)
町山さんによると、この映画は「ドキュメンタリー作品」などという枠でくくれない……もっとプラグマティックな反戦運動のひとつといっていいのだろう。いまそこにある危機に対して警鐘を鳴らす人がいて、それがたまたまムーア氏だった。人の作品にヘンな能書きたれる過去の人よりも、いまを闘う貧乏白人のムーア氏を、わたしも応援したくなる。
ただ、手放しで応援するのも、すこし脳天気すぎる。宮台真司さんは自らのウェブログで、こんなことを書いている。
頭を抱えたのは、(1)余りにも手法が稚拙なこと──sexyでないこと──と、(2)ブッシュの悪とアメリカの悪を混同すること──depthがないこと──による。「緊急避難」的に敢えてなしたのなら、米国人ならざる我々は尚更、この作品を手放しで誉めるべきでない。
(MIYADAI.com blog、http://www.miyadai.com/index.php?itemid=145、2004-08-25)
これは、ずいぶん長い記事のごく一部である。わたし自身、よく読み込めていないのだけど、「ブッシュの悪とアメリカの悪を混同する」という指摘はもっともだ。民主党のクリントン前大統領はモニカ・ルインスキさんとのスキャンダルが発覚したころ、突然イラクを空爆したことがあったが、「悪」はブッシュという個人だけではなく、共和党だけでもないだろう。私たちの前にはアメリカという「問題」がある。
だけど、ある作品に「ない」ものを求めるのは、後出しじゃんけんのような気もする。「なんでネオコンに触れないんだ」「おいおい、イスラエルを忘れてるぜ」といった声もたくさん寄せられた。「欠けているもの」を指して、欠陥商品のように貶したり、「あえて隠したことで○○に利した」と非難するのは、少々酷な話だとも思う。
森達也さんはこんなことを言っていた。
「華氏911」について一言だけ。僕がこの作品を批判するいちばん大きな理由は、「悔しい」からです。この映画を観に劇場に足を運んだ人は、ドキュメンタリーの本当の魅力に気づかないままに劇場を後にする。それがまず悔しい。この映画がやったことは本来ならメディアがやるべきこと。ドキュメンタリーの領分じゃない。「ロジャー&ミー」がとても秀逸だっただけに、大好きだったマイケル・ムーアに対しての悔しさもある。どうしちゃったの?という感じ。後はまあ、嫉妬もありますよね。たぶん。うん。それは認めないと・・。でもそれだけじゃないよ。本当に。
(森達也公式サイト、http://www.jdox.com/mori_t/、2004年09月26日にサイトにあった「近況」から)
『華氏911』は、森さんたち日本のドキュメンタリー作家たちが作ってきた良質な作品とは異質のモノで、〈ドキュメンタリーの大衆化〉をすっとばした反戦+反ブッシュの宣伝映像かもしれない。そんなことは分かっているはずなのに、それを敢えて「ドキュメンタリー」と規定し、「悔しい」と嘆いてみせるのは、ちょっと的はずれじゃないか。森さんの発言を読んだときに思った。『放送禁止歌』『スプーン』『A』『A2』がとても秀逸だっただけに、どうしちゃったの? と思った。だけど、「嫉妬もありますよね」という一言で、すべてを許してしまうのだけど。
森さんは人を指弾・糾弾することをしない。オウム真理教の幹部に暴行を加えたうえで不当逮捕した警官(『A』に収録)に対しても、被害者の信者に対しても、反警察の人権活動家に対しても、彼ら/彼女らには家族があって、子供がいたり、近所や親戚とのつきあいがあったり、悩みがあったり……と、わたしたちと変わらない日常を生きているという眼差しを向けているように思える。あらゆる人に同じ眼差し。マイケル・ムーアにも、軍隊に入らざるをえない貧乏白人にも、イラクの被災者にも、ビデオの前で民間人の首を切り落とす覆面の男たちにも、ブッシュ大統領にも、きっと同じ立ち位置から見つめるだろう。それを続けられるのはすごいことだ。
『華氏911』については、じつにさまざまな人が激賞したり批判したりしている。拾い上げているときりがないので、このくらいにするが、最後に自分にとっての『華氏911』はどうなのかを書いておきたい。
結論--『華氏911』はとても良いプロパガンダ映画である。わたし自身の無知をさらけだせば、知らなかった「事実」がいくつもちりばめられていた。お涙ちょうだいだけに流されることもなかったし、ひりつくような階級社会の痛みも伝わった。少ないながらおちょくりもあった。反ブッシュというプロパガンダであるという認識を持って多くの人に見てもらいたい。
ただ、日本の小市民(私を含む)が、プロパガンダ映画を鑑賞する図というは、居心地が悪い。この原因はきっと、「アメリカ的なるもの」や「日本的なるもの」が、わたし自身のなかでじゅうぶん咀嚼されていないためだ。
マイケル・ムーア氏は「反米」ではない。アメリカ人の素朴な感情に訴えかけることができる、いわゆる“アメリカ魂”の持ち主である。かれの強みはブッシュよりも自分のほうがアメリカを愛し、アメリカを信じていることだ。だから彼はブッシュに向かって「アメリカを返せ」「世界を返せ」と言える。
では、アメリカの要請に応えてサマワに自衛隊を派兵した日本に暮らすわたしは、どのように日本を見ているのかといえば、なんとも心許ない。わたしは精神を空っぽにして、マスメディアを流れる文字や映像を漂っているにすぎない。イラクで人質になった三人に対する自己責任論が高まったときに、「おい○○、日本を返せ!」と叫ぶこともできなかったし、森さんが『A』で描いた1995年以降の“反オウム集団ヒステリー”の真っ最中にも、「日本を返せ!」と言えなかったのだから。
マイケル・ムーア公式サイト
http://www.michaelmoore.com/
http://www.michaelmoorejapan.com/(日本版)
2004.09.27 in cinema (映画), democracy (民主主義), journalism (ジャーナリズム), politics (政治) | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック
2004.08.29
湯川さんの講演内容が公開されました
2004年07月に新聞協会で行われた湯川鶴章さんの講演内容が、ご本人の「ネットは新聞を殺すのかblog」で公開されました。
この講演については、わたしも「入力する女の子は必要なのか」で簡単にごくかんたんに紹介し、湯川さんご本人から和歌山弁のコメントをいただきました。ひとさまの講演内容をわたしが勝手に公開するのは気が引けていたのですが、ご本人がブログで書かれるのなら、なーんにも問題ないので、よろこんでリンクを張らせていただきます。どうもお疲れさまでした。
(ブログと聞くだけで嫌悪感を示したり、逆に、知ったかぶりして墓穴を掘るおっさんどもは、湯川講演録のようなネット上の“資源”にちゃんと目を通しはなれ)
湯川さん、そのうち、遊びにうかがいますね。
2004.08.29 in journalism (ジャーナリズム), media (メディア), publishing (出版), sociology (社会学), technology (技術), telecommunication (通信) | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック
2004.07.17
入力する女の子は必要なのか
「tsuruaki:ITニュース」を運営する湯川鶴章さんの話をきく機会があった。16日、新聞協会の勉強会のゲストとして招かれ、小一時間、マイクを手に熱弁されたのだが、わたしの知らない話がいくつもあり、勉強になった。(ちなみに、この勉強会では過去に、インターネット新聞JANJAN代表で元鎌倉市長の竹内謙さんも講演しています)
湯川鶴章さんといえば、NECの青木日照さんと共著で『ネットは新聞を殺すのか』(NTT出版、2003年)を出版したジャーナリストで、いまやウェブログ界の広報マンのような存在だ。勤務先は某国際通信社で肩書きは編集委員。社外活動と社内業務を融合して両立されているようだが、さぞ大変なことだろうと想像する。
新聞協会の勉強会はクローズドな性格なため、あれこれと詳細を書くわけにはいかないが、さわりを紹介するくらいは許されるだろう。湯川さんは、社内外の編集幹部たちに個人でブログサイトを立ち上げること勧めてきた。以下は、その一コマ。
「あんたもブログやりなさいよ」
「興味はあるんだけど、どうすればいいのかわからない」
「ブログツールを手元のパソコンに入れるとか、プロバイダのものを利用するとか。どちらにしても、大した金も手間は必要ない」
「そんな簡単にできるのか?」
「今からでも、すぐに始められる」
「おい、待てよ。入力する女の子も必要だろ?」
「……」
上記のようなやりとりが本当にあったのか、話を面白くしなければならないという関西人気質のため誇張されているのか、真相はわからない。(湯川さんは和歌山出身。大阪人の「おじさま」が、「オイヤン!」になってしまう地域)
もう一つくらい紹介しても叱られないと思うので、書いてしまうが、湯川さんは、新聞社がブログを上手に利用すれば、読者との距離を縮めることができるのではないかと提言していた。「距離」というのは物理学でいうところのものいではなく、社会心理学的な意味。大手新聞社・大手放送局に勤務する記者たちの世界観や人生観といったものは、すでに一般市民(庶民)から大きく乖離している。こうした事実から目をそらすことなく、ウェブログを活用しようというのが湯川さんのスタンスのようだ。
この時代、新聞の社説が「政府は、私たち国民の声を聞け」のような政府批判を書いたとしても、かつてほどの説得力はない。すくなくとも、わたしは白けてしまう。新聞というものが国民の声(世論)を代表していると信じているのは、その記事を書いている論説委員くらいだろう。そして、そうした論説委員たちの中には、ウェブログひとつじぶんで立ち上げられず、湯川さんに「入力する女の子はどうする?」などとボケをかましているのが実状なのだ。
湯川さんに個人的にお聞きしたかったのは、二足(三足?)のワラジを履くことに対する風当たり。わたしのブログは、某通信社の公式ウェブサイト編集長がアフター5に書いているものではなく、むしろ、某国立大学大学院修士課程で社会情報学を研究する初学者が綴るつぶやきなのだが、いろんな意味で、じつのところ切り分けが難しい。時間があれば、研究対象として、業界の先輩として、いろんな話を聞きたいなあと思いました。
■ネットは新聞を殺すのかblog http://kusanone.exblog.jp/
■tsuruaki:ITニュース http://tsuruaki.cocolog-nifty.com/tsuruaki/
2004.07.17 in books (本), democracy (民主主義), journalism (ジャーナリズム), media (メディア), sociology (社会学), technology (技術), telecommunication (通信) | 固定リンク | コメント (8) | トラックバック
2004.07.09
文体
わたしと同居人が勝手に「特ダネ作家」と仰ぐ清水義範さんのエッセイに、文体について書かれた作品があったように思う。あったはずだ。いや、絶対にあった。だって、読んだときに「なるほど、そういうことだったのか!」と小さなショックを受けたんだもん。
文体--この珍妙な概念について、万人を納得させる定義はあるだろうか。プロの作家であっても、困難なはずだ。むろん、文筆業者なら、自分の文体を意識することもあるだろう。だけど、だれもが(わたしやあたなが)納得できるような文体の説明って、どんなものだろう。
文体というコトバはたびたび目にしてきた。みんなふつうに使ってる。酔っぱらいのオッサンが「そもそも、司馬遼太郎の文体ってものは……」なんて講釈していたり、すかしたオバハンが「サガンの魅力は文体なのよ……」などとヌカしていたりする場面に出くわしたことはあった。つまり、説明できなくても、みんな知っているのだ。
この「文体」なるものについて、清水義範さんは、たしか、こんなふうに書いていた。“文体とは、つまり書き手の目線である”。本当に、清水さんがそう書いていたかどうかは別にして(←別にすな!)、少なくともわたしの記憶には、そんな記憶がある(原文を確かめようと本棚を漁ったが、結局見つからなかったので、うろ覚えのままブログに書くことにしました。ごめんなさい)。文体は、読者への目線の高さのようなもの……そうした説明は、わたしにはとても説得力のあった。異論を唱える人がいるだろうけど、「目線」というか「眼差し」というのは、かなり広義だし、反論は難しいのではないだろうか。
なんで、こんなことをグダグダ書いているかというと、大手マスコミの記者のブログが往々にして面白くないからだ。そのつまらなさの理由が、文体にあるような気がしてならない。どいつもこいつつも、みょうにエラソーなのである。「オレが○○の取材でシノギを削っていたとき……」とか、「あのときオレは弾の下をかいくぐって撮った写真がこれだ」とか、「オレは○○をやっつけた」とか……。書いている本人はあまり意識していないかもしれないが、ちょっと高飛車に感じられても仕方がない。
巨大掲示板の「2ちゃんねる」あたりでは、大マスコミの記者がどんなふうに想定されているか。(1)高学歴で(2)高収入で(3)記者クラブで楽ちんな取材をしていて(4)フリー記者が戦場で命を落としている間に、安全な場所で記事を書き(5)権力者と癒着して甘い汁を吸っていて(6)庶民の痛みが分からないで(7)娘や息子を自分の勤め先に入れようとしている………そんな過剰なメディア批判が行われてるネットの世界で、「あんたら無知蒙昧な下等人間に、オレさまが取材のこぼれ話を教えてやろう」みたいなことを金看板を背負って書くのは、ちょっと無謀だよな。(わたしの場合、ブログがなかったころから「負け犬記者の“無視されるのがオチ”」みたいな卑屈な雑文を書いてきたため、すっかり安全圏!)
ところで、清水義範さんがどうして「特ダネ作家」なのかというと、彼の作品を読むたびに「抜かれたー!」とくやしい思いをさせられるからだ。この感覚は、わたしがまだ駆け出し記者だったころにイヤと言うほど味わった感覚と似ている。「バールのようなもの」という作品のタイトルを見た途端、「先に書かれた!」と忸怩たる思いを味わった。
私が見習いたいと考える目線の低い作家は、清水義範さんのほかに、デーブ・バリーさんと土屋賢二さんがいる。この人たちはつくづくすごい。
2004.07.09 in journalism (ジャーナリズム), media (メディア) | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック
2004.07.05
世論(2)
第20回参議院選挙を目前にして、報道各社の世論調査結果があいついで報じられている。若干のバラツキはあるものの、どうやら自民が伸びなやみ、民主党がけっこう票をのばしそうな情勢だ。もちろん、選挙はじっさいにフタを開けてみなければわからない。投開票日まで1週間。この時点で“やや不利”と報じられた側の運動員たちには一斉にムチが入り、むしろ“引き締まった”格好で投開票に突入できるかも知れない。なぜなら世論の動向というのは水モノだから……
……ここでいう「世論」って、いったいなんだ?
世論調査の「世論」とは、報道機関の調査に協力してくださる人々が、あくまでも匿名を条件にかたった政治意識の累計でしかない。母集団には、「マスコミの調査なんかに応えてるヒマなんてあるものか」という忙しい人は入っていない。しかも、回答者がかならずしも正直に答えているとは限らない。熟慮のうえで回答した人の意見も、政治的な問題を真剣に考えたことがない人がテキトー答えた意見も、数値のうえでは等価である(まあ、選挙自体がそういうルールなのだから仕方ないけど)。
いずれにせよ、それが報道機関のいう「世論」なのだ。じぶんたちの調査結果こそが世論を映すもの。そういう前提で世論調査報道が行われる。
しかし、世論は報道機関だけの専売特許ではない。自民党が考える「世論」もあれば、野党が考える「世論」もある。外務官僚が想定する「世論」もあれば、警察官僚が受け止める「世論」もある。宗教界や経済界も、それぞれ自らの行為を、自らが考える「世論」に照らして……
……おいおい、じゃあ世論ってなんだ?
宗教権力が失墜し、専制君主が放逐され、貴族社会が崩壊し、社会が近代化していった果てに、人々は民主的手続きを通じて自身を治めるようになった。議会での討論を通じて立法をするルールが生まれた。ただ、議会はいつも満場一致で決まるほど甘くはない。いくつもの立場が対立し、いくつもの利害がぶつかり合うのが常だ。政治は妥協の連続だ。
政治家ならだれもが知っている。絶対的に正しい政策なんてない。政策や立法というのは常に暫定的。そこで「世論」が重要な働きを見せる。世論とは統治を正当化(正統化)する指標であり、「審級」となった。政治家も役人も財界もマスメディアもNPOも宗教者も、だれもが「世論」を奪い合ってきた……。世論というのは、ただそれ自体が本質的に存在するのではなく、社会的に構成されている……
……こういう世論観は、いわゆる構築主義に入るのでしょうか。最近、付け焼き刃ながら、いろんなことを考えつつあり、今回は、自問自答のつぶやきとなりました。独り言が行きつ戻りつしてすみません。
ところで、上田哲氏はかつて(今も?)“なんでも国民投票で決めよう”と主張しました。住民投票は地方自治を考えるうえで重要なキーワードだと思います。そういう、自分たちのことは自分たちで決めるルールというのは、究極の民主主義のように思えます。だがしかし、「おねがいだから、○○党に投票してね」と言われて、本当にその通り投票するような人に投票する権利を与えていいのでしょうか?
■私的メモURL
(財)日本世論調査協会
http://wwwsoc.nii.ac.jp/japor/
内閣府「世論調査」ページ
http://www8.cao.go.jp/survey/index-all.html
NHK「政治意識月例調査」
http://www.nhk.or.jp/bunken/news-jp/bnl-yo-r.html
世界世論調査学会
http://www.unl.edu/wapor/
ウェブサイト「朝日新聞を購読しましょう」の「朝日VS読売、世論調査対決」
http://www.asahicom.com/yoron/
Dr. Dr. h.c. Elisabeth Noelle-Neumann
http://www.noelle-neumann.de/
沈黙の螺旋
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%c4%c0%cc%db%a4%ce%cd%e6%c0%fb
池田謙一氏のウェブサイト
http://www-socpsy.l.u-tokyo.ac.jp/ikeda/
Patrick Champagne : Faire l'opinion
http://www.homme-moderne.org/societe/socio/champagn/
パトリック・シャンパーニュ『世論をつくる 象徴闘争と民主主義』(宮島喬訳、藤原書店、2004年2月)
http://www.fujiwara-shoten.co.jp/book/book476.htm
宮島喬氏
http://www.rikkyo.ne.jp/grp/jyoseika/ken/vin/miyajima_t.html
石井洋二郎氏のコラム「ブルデュー社会学と日本」
http://www.bekkoame.ne.jp/~n-iyanag/AABMFJ/conferences/ishii.html
法政大・野村一夫さんの「社会構築主義の導入――理論的核心」
http://archive.honya.co.jp/contents/knomura/health2/critical02.html
上野千鶴子編 『構築主義とは何か』 by 立命大学院先端総合学術研究所・北村 健太郎さんのDB
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/db2000/0102uc.htm
「本質主義(Essentialism)」かいせつ・池田光穂さん
http://www.let.kumamoto-u.ac.jp/cs/cu/021111esse.html
2004.07.05 in books (本), democracy (民主主義), journalism (ジャーナリズム), media (メディア), sociology (社会学) | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック
2004.06.06
世論(1)
政治的な話題で使われることの多い言葉に「世論」というものがあるが、驚いたことに、この言葉の定番とされる定義はない。いろんな学者がトライして、ことごとく失敗している。わたしのような凡骨が空気のように使っている言葉を、その道の研究者たちがきちんと定義できていないというのは皮肉な話だ。
たとえ学術的に定義ができなくても、市販の辞書類に意味が載っていないわけがない。さっそく、愛用のVAIO-TRにインストールした各種辞書で「よろん」を串刺し検索してみた。
【広辞苑】世間一般の人が唱える論。社会大衆に共通な意見。(「世論」は「輿論」の代りに用いる表記。→せろん) 【大辞林】世間の大多数の人の意見。一般市民が社会や社会的問題に対してとる態度や見解。「―に訴える」「―を喚起する」〔「世論」と書くときは「せろん」と読む場合が多い〕 【マイペディア】多数者(輿)の意見。⇒世論(せろん)のこと。いずれも「よろん」だけではなく「せろん」も調べろと言っていた。仕方なく「せろん」も調べてみた。
【広辞苑】世間一般の議論。輿論(よろん)。せいろん。(もと、ヨロンと読んで「輿論」の代用としたが、セロンとも読まれるようになった) 【大辞林】世間の大多数の人の意見。世上で行われる議論。せいろん。よろん。〔戦後の漢字制限によって「輿論(ヨロン)」の代わりに用いられるようになった語。「せろん」「よろん」の両方の読み方が行われている〕 【マイペディア】ある社会集団の中で,成員一般に関する問題についてある程度の意見の一致を経て表明され,多数がそれを標準的と認めている顕在的意見。広義には顕在的意見の根底にある欲求や願望も含まれる。近代民主政治の政治過程と結びついて発展してきた社会学的ないしは社会心理学的概念で,支配の正当性を求める統治体との関連において問題とされる。
辞書によってバラつきがあるものの、ざっとみたところ、多数者の意見をまとめたもの…みたいな感じになる。ちなみに、「輿」という文字は、御神輿(おみこし)の「こし」。京都の葵祭で斎王代が乗るのは、御輿(およよ)と呼ばれる。そんなわけで、わたしは輿論という漢字から、下々の者どもが大勢で“お姫様のようなあでやかな論”で担いでいる図を頭に描いてしまう (←これって、リップマンの疑似環境?)。
歴史的にみると、どうやら輿論(よろん)が「公的な意見」を指し、世論(せろん)が「人々の心情や本音」を指すものとして同時並行で使われていた時期もあった。大辞林の説明にあるように、戦後の漢字制限で「世論」に統一されたが、読み方は「よろん」と「せろん」の二つが残ってしまった。だから辞書を二度もひかなければならない。
ところで、そもそも日本列島に「世論」などという概念があったわけではない。民主主義とともに輸入された考え方だ。この国に昔からあったのは、もちろん「世間」である。この世間というやつも非常に多義的で、「世間騒がせ」や「世間ずれ」といった表現や「渡る世間に…」などいくつもの諺に取り入れられている。
世論にせよ世間にせよ、一方的なプロパガンダや洗脳教育のようなものによって作られるのではなく、おそらく人々が意思や感情を伝達しあうなかで生みだされるものであるはずだ。つまり、コミュニケーション過程の問題とした考えたほうがよい、というの研究者もいる。
そうこうしているうちに、珍妙な言葉に出会った。「ネット世論」である。そんなところに、いつから世論できていたんだ? それって、どこかの掲示板でヒステリックな書き込みが相次いだとして、はたしてそれが世論か? うーん、わからん。ふつうの世論でさえ分かりにくいのに、ネット世論なんて、勘弁してくれ、と言いたくなる。
ちなみに、わたしの好きなマーク・トゥエインの言葉にこういうのがある。
「自分が多数者の側にいると気づいたら、そろそろ意見を変えてもいいころだ」
気になるページ◆2ちゃんねるに《リベラル》の花束を(excite Books 北田暁大スペシャルインタビュー)
2004.06.06 in books (本), democracy (民主主義), journalism (ジャーナリズム), media (メディア), sociology (社会学) | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック
2004.04.30
熱く語るという「お約束」、それとも…
ひさしぶりの平日の休日(……というか大型連休の始まりなんだよな)、昼前に布団から抜け出して、テレビを見ていたら、俳優の大和田獏が田原総一郎みたいなことをやっている場面に出くわしてしまった。時事問題について、自らの意見を述べながら、強引な司会をしているのだ。この日のテーマは、小泉内閣7閣僚+菅直人の年金未納問題。まるで、鬼の首でも取ったような怒りっぷりで番組を仕切ってるのである。
思わず膝を打った。なーんだ、この番組だったのか! たしか、大和田獏が「イラク人質事件」で、“たとえ救出に税金が20億円かかろうとも、ひとり20円じゃないか”と言ったとか言わないとかで、ネットで小バカにされていたのだが、震源地はテレビ朝日「ワイドスクランブル」という番組だったか、と膝を打ったのだ。
それにしても、ほんわかした役柄が似合いそうな大和田獏が、なんだ知らないけど、やたら激しく怒ってるのがヘンなのだ。時事問題で司会者が思わず熱く語ってしまう番組といえば、朝日ニュースター「愛川欽也のパック・イン・ジャーナル」がある。この番組も、たまに見てしまうのだけど、唇震わせて激高する愛川はやっぱりヘンだ。どう考えても、怒りすぎ。(報道ステーションの古館一郎も、眉間にしわを寄せてカメラをにらみまくっている。これも困ったなあと思う)
ニュース、報道、ジャーナリズム…… 真実を追い求め、悪を追及する立場に立たされると、どんな温厚な人もつい怒ってしまうのだろうか。ああいう立場に立たされて、温厚にやってると視聴者からお叱りを受けるのか。ひょっとして、時事トーク番組の司会者は、田原総一郎みたいに感情も意見も出すべきものだ、というような「お約束」が成立しつつあるのかもしれない。
閣僚の年金未納と法案強行採決はケシカラン話だけど、ちょっと落ち着けよ、とブラウン管に毒ついた休日の昼でした。おだやかなGWの幕開けです。
2004.04.30 in journalism (ジャーナリズム), media (メディア) | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック
2004.04.24
オンライン・ジャーナリズム
オンライン・ジャーナリズム--。数年前に流行したテーマだそうだ。たぶん、ITバブルがハジける前のことだったのだろう。ネットで後発国とされた日本では、インパク(インターネット博覧会)が開催され、e-JAPAN計画がブチあげられ、デジタル放送の野望が語られ、Y2K(2000年)問題でみんなヒヤヒヤさせられ、IT投資とそれにともなうリストラに泣き笑いした。
ネットでは、個人発信のメールマガジンが次から次へと発行された。マスコミそこのけの部数を発行するメルマガが生まれたり、2ちゃんねるのような巨大掲示板にマスコミが翻弄されたり、音楽ファイルがつぎつぎと共有され、芸能人や文化人がウェブ上でファンに語りかけたり。その一方で、ネットにはウイルスが蔓延し、詐欺事件が頻発し、心中や自殺や癒しやアダルト・チルドレンなどというテーマで人々がつながりあったりした。
インターネットが普及したのは、Windows95が発売された1995年暮れから96年にかけて。あれから10年近くのときを経て、ネット上に生まれたり消えたりしてきた言論活動を調べてみると、いろんなものが見えてくるかもしれない。
2004.04.24 in journalism (ジャーナリズム), sociology (社会学), technology (技術), telecommunication (通信) | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック
2004.04.12
イラク邦人人質へのツライ眼差し
みんなで寄ってたかって、人質3人と、その家族を責めたてるの風潮は、じつにニッポン的だなあと思う。これは、オウム真理教に対する集団ヒステリーが高じた時期の空気に似ているし、神戸の児童連続殺傷事件が発生したときのある種の空気に通じる。知人のフリーライターは「この国には神はいない。ロード・オブ・セケンがある」と話していたけど、今回もまた、いやな世間に出会ってしまった。
だれだって事故に遭うことがある。運わるく事件に巻き込まれることだってある。それは、危険だとされる地域であっても、安全とされる地域であっても、不測の事態は起こりうる。その被害者に対して、“お国に迷惑をかける粗忽者”というレッテルを貼って、その家族をも責め立てるのは卑劣だ。そして、世間はいつも卑劣だし、いつもお節介だし、いつも寄ってたかって…なのだ。(3人の行動を過度に美化するのもヘンなのだが)
たとえば、1999年秋、茨城県の核燃料加工会社ジェー・シー・オー(JCO)東海事業所で起こった臨界事故で、亡くなった大内久さんに対して、今回のようなヒステリックな非難は起こっていない。むろん、あの事故では、JCOの経営陣や大内さんの上司たちに大きな責任があった。しかしながら、大内さん本人にも安全管理に度し難い行動が認められる。(大内さんを責めろと言っているのではない)
哀れな家族たちが、いったいどんなツラををして、どんなセリフを発するか。その姿は生意気っぽいか? その顔つきに反省の色がないか? 髪型が、服装が、気に入らないか? そういった話題を肴に、正義漢ぶって、評論家ぶって、すっとぼけた“一家言”を得意げに披露する人たちを見るのが、心底ツライ。
2004.04.12 in democracy (民主主義), dysphoria (不快・抑鬱), journalism (ジャーナリズム) | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック
2004.04.02
わたし祈ってます
少し古い吉田司作品を読んだ。『あなたは男でしょ。強く生きなきゃ、ダメなの/吉田司評論集』(草風館、2001)。版元は、吉田をノンフィクション作家として世に出した出版社だ。『下下戦記』は白水社から出たが、その元になった記事が載ったのは、草風館の『人間雑誌』という季刊雑誌だったんだよと、ある人から教えられた。
吉田作品は『ビル・ゲイツに会った日』(講談社、1996)以来久しぶりだ。とはいえ、彼の記事は「アエラ」や東京新聞でちょろちょろ見かけていた。
話を『あなたは男でしょ-』に戻そう。この本は、90年代半ばから2001年まで、吉田があちこちのメディアに書き散らかした文章を、寄せ集めたものだ。そんな事情をさっ引いても、本の作りが少し安易で雑だった。むろん、自らの青春時代を振り返る第1章は、内容がドス黒くて、久しぶりにゾクゾクした。しかしながら、bk1の書評で大月氏が、田口ランディに対する吉田の取材が「空振った」と書いているが、まったく同感。宮崎学にもツッコミが足りない気がした。でも、やっぱり、馬力のある人だ。やくざ踊りで鍛えられただけのことはある。
なお、この本のタイトルは、1975(昭50)敏いとうとハッピー&ブルーがヒットさせた「わたし祈ってます」(作詞・作曲:五十嵐悟)の一節にあるものだが、いい曲だった。とくに、3番のサビの部分「いいわね、お願い。泣いちゃおかしいわ」のところで、ジーンときた。今度カラオケで歌ってみよう。
2004.04.02 in books (本), democracy (民主主義), journalism (ジャーナリズム) | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック
2004.03.27
判決全文は、すでにバーンと公開されている
24日の読売-デジタルアライアンス訴訟の判決全文が、東京地裁のサイトで公開されている。知的所有権をめぐる訴訟なので、「知的財産権判決速報」コーナーでさっそく公開された。で、わたしも判決全文をざーっと読んだ。とても興味深い内容だった。
読売側はDA社の電光掲示板のようなツールで自社記事の見出しを利用されたことに対し、(1)著作権の侵害である(2)たとえ著作権法違反でなくても、営業妨害だ--という二段構えの訴えをおこなった。
(1)の著作権関係の審理は、具体的な事例がいくつも取り上げられている。たとえば、「いじめ苦?都内のマンションで中3男子が飛び降り自殺」の見出しについて、読売側は「いじめ苦?」の部分に創作性があると主張したようであるが、飯村敏明・榎戸道也・佐野信の三判事は「ありふれた表現であるから,創作性を認めることはできない」と判断した。こうした個々の事例は、メディア企業の社員研修に使えそうな内容となっている。
また(2)のDAが読売の営業活動を不法に妨害したという訴えについては、▽YOL見出しは読売自身がインターネット上で無償で公開した情報▽読売側に排他的な権利が認められない以上、第三者がこれらを利用することは本来自由▽特段の事情のない限り、インターネット上に公開された情報を利用することが違法とならない---という結論がごく簡単に記されているにすぎない。
それにしても、裁判所が判決全文を「速報」するなんていう時代が来ようとは!
突然ですが、クイズです。
裁判の判決文の著作権者は、いったい誰になるでしょう。
A そら、書いた判事に決まってますがな。常識でっせ。
B 裁判の場合、原告・読売と被告・DAの双方が平等に著作権を保有するねんよ。
C 判決文は、書いた判事の勤め先である東京地裁のものに決まってまんがな。
D おまえらアホか、判決文に著作権なんかあるかい!
さーて、正解は、A~Dのどれでしょう?
著作権に関して信頼できるサイト:Copy & Copyright Diary
2004.03.27 in democracy (民主主義), journalism (ジャーナリズム), law (法律), media (メディア), technology (技術), telecommunication (通信) | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック
2004.03.24
「読売敗訴」の文字列がライントピックスに繰り返し、繰り返し流れた……
夜、なーんとなく神戸のデジタルアライアンス社のサイトを訪れたら、電光掲示板のようなモノ(ライントピックス)に、「見出しに著作権認めず=ネット引用めぐり読売敗訴-東京地裁」なーんていう文字列がびゅんびゅん流れていた。繰り返し、繰り返し流れる「読売敗訴」という電光ニュースに目がとまってしまったのは、わたしだけ?
記事の見出しに著作権が発生しない--わが国初の司法判断を下した東京地裁の飯村敏明裁判長は、知財関係では知る人ぞ知る判事。ソーテックe-one-iMac酷似訴訟を裁いたのも、東京リーガルマインドのソフトウェアの組織内コピー訴訟を裁いたのも飯村さんでした。
インターネット普及期の過剰防御的な感覚と、朝日新聞や琉球新報がRSSを公開する、などという今の感覚とでは、ずいぶん開きがあるのかもしれませんね。
関連リンク:
デジタルアライアンス社「読売新聞東京本社によるライントピックス提訴に関して」
YOL(読売新聞ウェブサイト)「著作権、リンク、個人情報の取り扱いについて」
裁判所ホームページ・知的財産権判決速報のページ(ただし、当該事件の判決は未掲載)
2004.03.24 in democracy (民主主義), journalism (ジャーナリズム), law (法律), media (メディア), technology (技術), telecommunication (通信) | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック
2004.03.23
おつかれさまでした
きょう、勤務先でたいへんお世話になった人の送別会があった。基本的に勤め先のことは書かない方針だけど、今回だけは別。いろいろ教えてくださって、ありがとうございました。
これからは会社の枠を超えて、お付き合いできればと願っています。わたしは、まだしばらく、内部的自由のない状況下をはい回ることになります。どうかご支援ください。
関連リンク:
「50年後,紙の新聞は残っているのか」
客席と心の起伏を共にする童謡漫談
2004.03.23 in journalism (ジャーナリズム), mumble (つぶやき) | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック
2004.03.18
よもやの出版差し止め仮処分命令
東京地裁が、衆院議員で元外相の田中真紀子氏の長女をめぐる記事を掲載した「週刊文春」の17日発売予定号について、出版を禁止する仮処分命令を出してしまった。命令は発売前日に出されたが、雑誌自体はすでに全国の書店に配送済みで、ほとんどは販売された。だけど、発売前に出版を禁じる仮処分命令は異例だ。
この仮処分は、真紀子長女に手痛いものだったはずだ。今回の仮処分命令に対し、多くの雑誌メディアは文春の立場にシンパシーを感じ、真紀子長女側を言論の敵と見なしがち。真紀子長女側に不利なのはそれだけではない。今回の仮処分命令によって、離婚という事実が、文春読者数よりもはるかに多くの人の目にさらされてしまうという事態を招いてしまった。文春側よりも真紀子長女の側に「痛い」命令だったと見るのが自然だ。
仮処分命令を出した東京地裁の判断は正しかったのか。記事内容が、人の生き死に関わるほどの深刻な問題でもなければ、国家の命運を左右する重大問題でもない。スクープかも知れないが、私人の離婚をめぐるゴタゴタをスッパ抜いた記事でしかない。文春側にとっても、真紀子長女側にとっても、「よもや」の仮処分命令だったのではないでしょうか。
でも、これが元外相の家族ではなく、フツーの人だったら(あるいは「社会的弱者」だったら)、判事は仮処分を認めただろうか。こんなとき、「もし」の問いかけをしても、意味はない。だけど、つい、考えてしまう。これが真紀子長女ではなく、旧オウム真理教関係者や、白装束団体、京都の某養鶏場関係者などであったとすれば、判事はどんな判断をしただろう。
たとえ公人の家族であろうとプライバシーは尊重されねばならない。そうですよね。理屈は大いに分かります。なら、私人のプライバシーはそれと同等(か、あるいはそれ以上?)に守られなければならなくなるのではないですか? 鬼沢友直裁判官殿、あれで本当に良かったんですかねえ。
2004.03.18 in democracy (民主主義), journalism (ジャーナリズム), law (法律), media (メディア), publishing (出版) | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック
2004.03.07
きのうもきょうも苦行また苦行
個人ウェブサイト『畑仲哲雄の苦行部屋』が少しずつ形を整えつつある。1997年にはじめた『PressRoom』をリニューアルする形で作り始めているが、うまくっているのかどうか。
従前はテキスト主体の軽いサイト作りを目指したが、ブロードバンド時代に、意地を張っても仕方あるまいと思って、JPEGでタイトルを作ってみた。Vectorで小さなツールを見つけたのだが、これがなかなか使える。LOGO!
いずれにしても、サイトの引っ越し+増改築は苦行。土日を大半を費やしましたが、ふと思う。おれは一体なにをしてたのやろ、と思います。めっちゃ疲れたなあ。
2004.03.07 in journalism (ジャーナリズム), mumble (つぶやき), nerd (おたく), publishing (出版) | 固定リンク | トラックバック
2004.02.28
神がかりの被告人を裁けたのか
きのう朝から、勤務先に動員されて、麻原被告判決公判の傍聴券の抽選に並んだ。早朝からぞろぞろやってきた暇な4658人のうちの1人である。わが同居人も物見うさんでやってきて抽選に参加した。で、みごと抽選にはずれた。
それにしても、一連のオウム事件は、この国を覆っていた近代という薄皮をはがしてくれた。恐ろしい時代に生まれてきたような気がする。現在の麻原被告はまともな状態なのだろうか。ほんとうに審理は尽くされたのだろうか。薬害エイズ事件の安部英元帝京大副学長の控訴審が公判停止となった直後だけに、あれこれ暗いことを考えさせられる。..
2004.02.28 in dysphoria (不快・抑鬱), journalism (ジャーナリズム), law (法律), ニュース | 固定リンク | トラックバック
















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