カテゴリー「moral / ethics」の50件の記事

2026年6月 2日 (火)

「外的な継承と内的な継承」:NHK放文研・古澤健(2026)のレビュー

今春、NHK放送文化研究所がウェブ公開している論文に対するレビューを書くよう依頼されました。たいへん光栄なことなので、喜んでお受けし、感想めいたレビューをお送りしました。ただし、お送りした文章は、NHK放文研のウェブサイトでは公開されることがなく、あくまでも研究所員の研究向上のための内部資料にとどまるものですが、了解が得られたので、自分のブログに掲載しておきます。

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【対象】
古澤健(2026)「調査研究ノート:メディアにおける震災の継承――東日本大震災の発生から15年」『放送研究と調査』77(4) 32-45.
https://www.nhk.or.jp/bunken/d/_data/research/domestic/BUNA0000010760030003/files/20260401_02.pdf

【執筆者】畑仲哲雄

【本文】
 ジャーナリズムには、戦争や災害の惨禍を記録し、後世に伝える役割があると言われてきました。「あの日を忘れない」「語り継ぐ」「風化に抗う」などのタイトルが付いたキャンペーン報道を続けることは報道機関に期待されてきた使命といえるでしょう。それらを「外的な継承」とすれば、古澤氏の論考が伝えるもの、NHKと福島中央テレビの中で営まれている「内的な継承」と言えるでしょう。古澤氏の論考は、内的な継承の意義と重要性を存分に伝える貴重なものと言えます。

 NHKの職員研修「東日本大震災伝承」は、倫理的判断を「知識として学ぶ」のではなく「体感する」ことに重点を置く「シチュエーション・ラーニング」という手法が採用されています。簡単にいうと、道徳的ジレンマの物語を示し、「もし、あの日の現場にいたら、自分ならどうするか」を考え、グループで持ち寄るというものです。研修参加者たちは、15年前の「現場」を心の中で追体験することで、さまざまな学びを得ます。わたし自身、シチュエーション・ラーニングと共通点の多い「ケースメソッド」と呼ばれる手法を大学の授業で採り入れています[1][2]。事実やデータを教える一方通行の授業に比べて教育効果が高いためです。古澤氏は、研修参加者のコメントを事例ごとに紹介していて、それらはとても興味深いものでした。

 福島中央テレビのシリーズ企画「伝えたいこと」と、同局を中心に続けられている「NNN原発勉強会」という事例も、意義深い取り組みに思えました。

 「伝えたいこと」は、震災10年を節目に、夕方の情報ワイド番組の中で作られた5分強の枠で、20代の記者が中心になり、被災者の語りを引き出しています。古澤氏は、福島中央テレビに勤務する、震災当時小学3年生だった若手記者にインタビューして、次の言葉を引き出しています。「自分ごととしてとらえてもらうには、自分がもしそこにいたらとか、もし同じ経験をしたらとか、具体的に思いを巡らせることではないか。そういうニュースを伝えていかないと、歴史の教科書で見るのと同じになってしまう」。それは、組織の壁を超えて、多くの報道機関の記者やディレクターに共有してもらいたい言葉といえるでしょう。また、「NNN原発勉強会」も原発を単なる技術やデータの次元ではなく、福島第一原発の構内視察など身体感覚を伴うものとして設定されていることに、わたしのような一視聴者はある種の安心感を覚えます。

 論文のまとめ部分に記された古澤氏の記述は、多くの点で納得がいくものです。すなわち、「最前線で起きたことのリアリティーを次の世代に伝えていく」というのは、冒頭で記した「内的な継承」です。そうした「内的な継承」が組織の壁を超えて共有されることを期待する古澤氏の調査研究者としての眼差しにも誠実さが感じられます。NHKや福島中央テレビ以外の事例に関する新たな報告を期待します。

[1] 畑仲哲雄(2024)「ケースブックの作成とケースメソッド授業の実践――ジャーナリズム倫理の授業を振り返って」『龍谷大学社会学部紀要』65pp.5968

[2] 畑仲哲雄(2026)『増補改訂版 ジャーナリズムの道徳的ジレンマ』勁草書房.

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2025年8月28日 (木)

ドキュメンタリー評『揺さぶられる正義』

弁護士資格を持つ関西テレビの上田大輔記者が監督を務めたドキュメンタリー『揺さぶられる正義』の試写を見る機会があったので、以下、慣れない批評をしてみたい。
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 冤罪問題に挑む弁護士に憧れた青年は、30歳を目前に司法試験に合格したものの、すでに刑事弁護に希望を見いだせなくなっていた。そんな独白から始まるこの作品は、監督であり主人公でもある上田が発する問いと内省的なナレーションを軸に展開されていく。いわゆる一人称で語るスタイルのドキュメンタリーだ。


 上田は2009年、企業内弁護士として関西テレビに採用され、その7年後、刑事弁護への関心から記者職に転じた。法律家という国家資格を持つ記者というのは、日本の報道機関でも異例の存在である。


 映画では、幼児虐待に関わる4つの刑事事件が取り上げられる。いくつかの事件は、生ニュースとして報道されているし、上田も夕方のワイド番組に裁判の解説をし、深夜のドキュメンタリーも制作した。そのひとつ、虐待の疑いで親たちが逮捕される事件を扱った「ふたつの正義 検証・揺さぶられっ子症候群」は報道界で高い評価を得た。しかし上田は、今回の映画の中で「はたして『ふたつの正義』という安易な物差しで等しく天秤に掛けられるのだろうか」と過去の自らのフレームに疑義を唱える。


 映画の中で、上田の思い出話が何度か挟まれる。ロースクール時代、上田は恩師に、無実を訴える依頼者がクロに思えたらどうするべきかと尋ねた。恩師からは「やってないと言ったら、それを信じるんだよ」と諭されたが、上田は「自分にはできないと思った」。だが、上田の情報源である秋田真志弁護士は、恩師が言うような「信じる」人だった。


 秋田は、冤罪問題に取り組むメンバーたちと居酒屋で卓を囲む場面で、こんな言葉を語る。「信じんかったら始まりませんからね。警察も、検察官も、裁判官も、みんなね騙されるのが嫌いなんです。騙されるのは弁護士の役割ですよ」。刑事弁護士の至言ともいえるこの言葉は、取材者と被取材者との関係に対する重要な問いとして、本作の伏線となる。


 作品を通じて、上田はいくつもの重要な問いをつぶやく。ひとつは、逮捕報道のあり方だ。警察情報だけを元に報じることの危険性は1976年の「疋田リポート」以来、何度も批判されてきた。逮捕前から疑惑の人物を撮影したり接触したりして、逮捕時に一斉に流すやり方は、1988年の和歌山毒物カレー事件などでも繰り返し見られた。そして、メディアの犯人視報道は、警察や検察の冤罪の共犯関係となっている。


 上田は映画の冒頭部分で「テレビ局に入社し、企業内弁護士になったが、刑事司法の問題が頭から離れなかった。だから報道記者になったのに、今自分は冤罪を作る側にいるのかもしれない」と自身の立ち位置を真摯に問う。その問いに対し、上田自身がどのような答えを出したかは、映画を見る人に委ねられる。


 わたしが本作を見て、もうひとつ印象深かったことがある。甲南大学教授の笹倉香菜の言葉に心に響くものがあった。笹倉は秋田とともに冤罪問題に取り組む重要な人物として本作で登場する。彼女は米国留学中、冤罪問題に取り組むイノセンス・プロジェクトに出会い、日本版を立ち上げた。その理由について笹倉は「冤罪は法律家の責任でもあるが、社会全体の責任。救済も支援もしないのは一部の人を見捨てることになる。そのことの贖罪というと変だが、冤罪に苦しんでいる人を助けたい」と述べる。この贖罪という言葉は、映画の中の隠されたテーマであり、上田自身の問いを深めた要因ではなかったか。

 日々のニュースを原稿にする記者は、取材対象との間に一定の距離を保つ。こうした「ディタッチメント(距離の保持)」の原則は、偏向報道を防ぐためにアメリカの主流メディアが築いてきた伝統であり、戦後の日本の報道界もその姿勢を踏襲してきた。

 一方で、ドキュメンタリーという手法は、対象に接近し、深く関わらざるを得ない性質を持つ。ニュース報道が「広く浅く」を旨とするならば、ドキュメンタリーは「狭く深く」を志向せざるを得ない。本作は、そうした両者のスタンスの狭間に位置しており、監督である上田もまた、法律家とジャーナリストという二つの立場の間で揺れ動いている存在だといえる。

 試写を見終えたとき、冒頭に映し出された、息子と戯れる上田の姿がふと脳裏に浮かんだ。彼の個人的な側面を垣間見せると同時に、作品全体の視点に静かに支え続けていたことが理解できた。

上田大輔(監督)『揺さぶられる正義』、2025年、関西テレビ放送/東風




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2025年8月16日 (土)

疋田レポート50年 ジャーナリズム倫理をめぐる遺産

1976年、朝日新聞編集委員だった疋田桂一郎が書いた調査論文を熟読しました。通称「疋田レポート」と呼ばれるその文献の正式な題は「ある事件記事の間違い」で、朝日新聞社の「調研室報」1976年9月号に掲載されたものです。「調研室報」は社内向けの冊子で、外部には公開されていませんでしたが、上前淳一郎が「週刊文春」の連載コラムや自著で紹介したこともあり、広く伝わりました。

疋田が取り上げたのは、銀行の支店長が障害児の娘を殺害した容疑で逮捕された記事で、警察発表だけを鵜呑みにして原稿を書くことの危うさが実証的に論じられていました。疋田が公判記録を丹念に追った結果、支店長氏は、取調官が描いた物語に基づいて記された調書に署名・捺印していました。支店長氏は、幼い娘の死だけでも相当なショックでしたが、じぶんが逮捕されるという展開に混乱していたことは想像に余りあります。

刑事裁判のなかで支店長氏は「大学を出て一流の会社に勤めているような人間の考えることはわからん、とか(中略)あんたのようにお金にも恵まれた人が子供を殺すというのは許せぬ、というような色々なことを、色々な方が最初の日はきついことをいわれました」と述べました。ですが、取調官に対しては「担当の刑事さんが大変思いやりの深い方でして、その点はいまでも感謝の気持ちを持っております」と語っていた点は注意を要します。支店長氏は、逮捕直後に調書をとられた際、「死なせるという言葉は止めてください。寿命だと思って諦めたという風に書いてください」と訴えたそうです。しかし、「同じことだからそういうことにはこだわらないで」「もうおわっちゃったことなんだから」などと言われ、取調官に従ったということです。

このレポートを読んで痛感するのは、近年に起こった冤罪事件にも共通点があまりにも多いことです。わたしが毎日新聞記者になったのが1985年でしたので、疋田レポートの存在を知らないわけではありませんでしたが、警察担当をしていた時分に読む機会を逸していたことが悔やまれます。むろん、当時、わたしがそれを読んでいたとしても、問題意識を共有するためのジャーナリスト仲間がいたわけではありません。わたしはOJTを通じて取材や執筆の技術を身につけていた段階で、企業間競争の中にあって「青臭いこと」を語り合う場面はあまりありませんでした。

2026年は疋田レポート50年です。大学生や大学院生たちにも勧めてみたいと思います。

なお、疋田レポートは朝日新聞社の月刊誌『Journalism』2009年2月号に全文掲載されていますので、興味のある人は図書館で読むことをお薦めします。レポートを公開してくれた当時の朝日新聞社の関係者には敬意を表します。

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2025年7月28日 (月)

『それでも私は』『マミー』『A』が描く世間という魔物

三つの作品が突きつけた重い問い

先日、長塚洋さんが監督した『それでも私は Though I'm His Daughter』を観ました。見終わったあと、1年ほど前に観た二村真弘監督の『マミー』や森達也監督の『A』を観たときのような、なんともいえない重苦しい気持ちになりました。

長塚さんの『それでも私は』は、オウム真理教教祖・麻原彰晃の三女である松本麗華さんに密着したドキュメンタリーです。地下鉄サリン事件の後、教団本部が捜索されて教祖や幹部が逮捕されて一家離散になったとき、松本さんはまだ12歳でした。教団の教義に基づいて教育された松本さんは、16歳でようやく教団から離脱し、一人の人間として生き直そうとします。

しかし、「教祖の娘」ということを知られるたびに、「世間」は彼女を排除しました。大学入試に合格しても入学を拒否され、銀行口座の開設も認められず、アルバイトも次々と解雇される。そんな排除の連鎖に、彼女は長年晒され続けています。

松本さんは、自分の意志で教祖の娘になったわけでもありません。幼かった彼女は一連の事件とも無関係です。つまり彼女は加害者どころか被害者の一人と言えます。それなのに彼女は「逃れられない過去」に苦しめられてきました。「死にたい」と漏らす松本さんの現実を、長塚さんのカメラは淡々と映し出しています。

手記に綴られた「世間」という名の権力

松本さんは2015年に、手記『止まった時計:麻原彰晃の三女・アーチャリーの手記』を出版しています。そこには、彼女を苦しめた「世間」の姿が何度も記録されていました。

罪のない少女を「アーチャリー」と呼び、からかうような記事を書いた当時の夕刊紙や週刊誌の記者たち。面白おかしく報じた情報番組の制作者たち。彼女の入学を拒んだ大学関係者たち。そして、取り調べの際に罪の意識を植え付けようとした警察官や検察官たち。彼女の手記に綴られた「世間」の担い手たちの無自覚な権力性には言葉を失います。

なぜドキュメンタリーは「核心」に迫れるのか

森達也さんの『A』を観た時も、私は自分の胸に手を当てて自問しました。マスメディアは、なぜ森さんのような視点で報道できないのだろうか、と。

その理由の一つは、一般的なニュース報道が「形式的な客観性」という様式に縛られ、取材対象と一定の距離を保つことを求められるからでしょう。それに比べ、ドキュメンタリー作品では、長期間にわたって対象に寄り添い、信頼関係を築く手法がしばしば用いられます。最近知り合った放送局のディレクターが「対象に近づけば客観性から遠ざかる」と語っていましたが、まさにその通りなのだと思います。

『マミー』が問うメディアの原罪

『それでも私は』を観た後、カレンダーを振り返ると、ほぼ1年前に二村真弘監督の『マミー』を観ていました。和歌山毒物カレー事件で死刑判決を受け、今も無実を訴えている林眞須美さんの長男と夫を追ったドキュメンタリーです。

この映画で二村監督は、事件が冤罪である可能性を、実にシンプルな手法で検証していきます。大手報道機関にも調査報道を手がける記者は何人もいますが、私の知る限り、二村監督のような検証を行った例は見当たりません。少しでも冤罪の疑いが拭えないのであれば、権力監視という責務のためにも、彼の後に続くべきではないでしょうか。

しかし、おそらくそれは叶わないでしょう。なぜなら、マスメディア各社はかつてメディアスクラムによって林さん一家や近隣の住民に甚大な被害を与えており、今さら彼らから信頼を得ることは極めて困難だからです。

参考文献
長塚 洋(監督)『それでも私は Though I'm His Daughter』、2025年、Yo-Pro、119分。
二村真弘(監督)『マミー』、2024年、digTV/東風、93分。
森 達也(監督)『A』、1998年、製作:安岡卓治/配給:安岡フィルム、135分。
松本麗華(2015)『止まった時計:麻原彰晃の三女・アーチャリーの手記』(講談社)。
畑仲哲雄(2018)「加害者家族を『世間』から守れるか」『ジャーナリズムの道徳的ジレンマ』勁草書房、72-85頁。

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2025年7月26日 (土)

高学歴エリートよりも、多様な人材の確保を

2025年の今、報道の現場で働く記者たちは、私たちの世代が経験した頃とは比べものにならないほど厳しい環境にいます。そのような状況でも、ジャーナリズムの世界で奮闘する若い世代の姿には、本当に頭が下がる思いです。素晴らしい仕事をする記者は、今もたくさんいます。

それにもかかわらず、メディア全体への信頼は、残念ながら下がり続けています。なぜでしょうか。その原因の一つは、私たちオールド世代の怠慢と勉強不足にあったのかもしれません。もちろん、私自身もその責任から逃れることはできません。

エリートへの不信が、メディアにも向けられている?

この根深いメディア不信を解くヒントの一つは、マイケル・サンデルが指摘する「メリトクラシー(能力主義)」の問題に隠されているように思えます。

サンデル氏の著書『実力も運のうち』が示すように、現代では能力の高い「エリート層」へ向けられる不信感が強まっています。その眼差しは、大手メディアで働くジャーナリストたちにも、同じように向けられているのではないでしょうか。

考えてみれば、全国的に有名なメディアの中核を担う人の多くは、恵まれた家庭で育ち、難関大学を卒業したエリートです。その中で、自分が「幸運な下駄」を履かせてもらっていたと自覚している人は、どれくらいいるでしょう。

私たちの世代が就職活動していた頃、マスメディア界では「コネ入社」が横行していました(いまも一部ではあるでしょう)。親や親戚に有力者がいたり、特定の大学ゼミに所属していたりする人が、大手メディアの「組織ジャーナリスト」になるには、明らかに有利でした。そうした業界慣行が続けば、無意識のうちに、自分と似た境遇の人ばかりが集まめてしまうという構造ができても不思議ではありません。

尊敬される「偉い人」から、反感を買う「憎い人」へ

もちろん、恵まれた環境で育ったジャーナリストの中にも、素晴らしい人は大勢います。私利私欲がなく、社会のために尽くす姿は、まさに「ノブレス・オブリージュ(高貴な者の義務)」を実践する人として、称賛されるべきでしょう。いわゆる「運」も「実力」もあり、能力を開花させた幸運な人たちです。

しかし、もしそんな彼らの言動に、恵まれた自分の立場に対する無自覚さや、どこか権威的な空気が見え隠れしたら、世間の評価はどう変わるでしょう。尊敬されるべき「偉い人」は、たちまち反感を買う「憎い人」になってしまうのではないでしょうか(ソーシャルメディアでは、偽悪的に振るまう人がインフルエンサーになっています)。

多様な経験こそが、信頼回復の鍵

だからこそ、私はマスメディアの編集部門こそ、もっと多様な背景を持つ人々で構成されるべきだと考えます。数回の面接や試験だけで測れる「実力」など、実はとても曖昧なものです。組織に従順なふりをしたり、ソツのなさそうな格好を見せるだけのスキルが、善い人間を作るとは思えません。

むしろ、現代社会が抱える様々な困難に、自らの人生で直接向き合ってきた経験を持つ人(たとえば、社会的マイノリティ)。組織や上司が間違った判断をしたとき決して従わない人(抗命権を行使できる人)。ジャーナリズムの歴史的使命を大学院などで考えてきた人(学位保持者)。そうした人の比率を高めていくことこそが、メディアへの信頼を取り戻すための、確かな一歩になるのではないかと考えます。

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2025年5月 2日 (金)

『ジャーナリズムの道徳的ジレンマ』書籍化後のウェブ連載

勁草書房の編集部サイトで、「ジャーナリズムの道徳的ジレンマ」という連載をし、書籍化したものを大学の授業で使っていますが、紙の本を出した後も、ウェブ版の記事を掲載しています。きょう、新たな記事が公開されたので、それ以前のものも含めて、以下に記しておきます。

 

〈CASE 25〉事実の検証か、違法な取材か
https://keisobiblio.com/2025/05/02/hatanaka25/

 

〈CASE 24〉「選挙ヘイト」とどう向き合うか
https://keisobiblio.com/2024/10/08/hatanaka24/

 

〈CASE 23〉捜査幹部から賭けマージャンの誘いを受けたら
https://keisobiblio.com/2020/06/11/hatanaka23/

 

〈第22回〉番外編・授業で『ジャーナリズムの道徳的ジレンマ』を使う方法
https://keisobiblio.com/2019/06/04/hatanaka22/

 

〈CASE 21〉両論併記をうまく使うための注意点
https://keisobiblio.com/2019/04/02/hatanaka21/

 

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1年間、研究に専念します

4月から1年間のサバティカルに入りました。授業や学内行事などから離れて、研究に専念をすることになっています。わたしが研究しようと考えているのは、「人はどのようにしてジャーナリストになるのか」「どのようにすればジャーナリストが育成できるのか」です。これから主要報道機関や関連団体などをを訪れて聞き取り調査をしていきます。

今回の研究では「行為」それ自体よりも、「行為者」に光を当てようと思っています。ジャーナリストは義務論と功利主義の間を行ったり来たりするものだと考えられてきました。ジャーナリストはなにをするべきか/何をしてはいけないのか、という行為への着目です。行為をめぐる研究は重要ですが、徳倫理学では行為者に着目します。ジャーナリストはどうあるべきか、どのような徳が求められるか、です。

どんな成果が出せるか分かりませんが、とりあえず頑張ってみます。

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2024年11月12日 (火)

ジャーナリズム界における「鳥とバードウォッチャー」の関係

報道実務家は、日々、ニュースを求めて取材活動で忙しくしている。それに対し、ジャーナリズムの研究者は、報道実務家や組織を観察し、問題を検討することを生業としている。両者の関係は、「鳥とバードウォッチャー」のようなものだ。恐竜のように振る舞う悪しき鳥の組織に対し、一部のバードウォッチャーは厳しい眼差しを向けてきた。また別のバードウォッチャーは鳥には役に立たない思想や理想を振りかざしてしてきた。

しかし、近年、鳥の組織は相対的に弱体化し、鳥の数も激減している。バードウォッチャーたちは、弱りつつある鳥たちに本来の働きを羽ばたきをしてもらうための処方箋を書くときに来ているように思う。

「鳥とバードウォッチャー」というのは、物理学者リチャード・ファインマンが残した有名な言葉から借用した。その言葉とはは「科学者にとって科学哲学の無益さときたら、鳥たちにとっての鳥類学と大差ない。(Philosophy of science is about as useful to scientists as ornithology is to birds.)」だ。科学者にとっての科学哲学というファインマンの言葉を初めて知ったとき、わたしは報道実務家にとってのジャーナリズム研究との関係性に類似性を見いだした。(https://www.msz.co.jp/book/detail/07558/)

わたし自身は、かつて鳥であった。上手に空を舞ったわけでもなく、すごい獲物を取った経験もないが、ひょんなことからバードウォッチャーとして修行する機会を得て、運良く免許皆伝の身となった。

今後は、報道の実務家たちが、市民社会から求められ、市民社会と善き関係を築き、市民社会にとっての益鳥となるような、研究をしようと思う。

わたしは次年度の1年間、研究休暇をいただき、いろんな方々とお目にかかるつもりです。実務家の鳥の皆さまも、研究者であるバードウォッチャーの皆さまも、どうかよろしくお願いします。

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2023年3月30日 (木)

大学の序列と書き手の属性

共同通信社を退職し、龍谷大学に赴任して10年が過ぎようとしている。この間、ずっと不満に思ってきたことを述べたい。不満のひとつは、大学の序列表現。もうひとつはジャーナリストの属性が見えにくいことである。
 
いわゆる「名門」「一流」と形容される大学がある。日本では「東大」を頂点とする旧帝大があり、私学の“上位校”では「早慶」と「GMARCH(JMARCHとも)」があり、関西では「関関同立」という呼称がある。それらは入試難易度、つまり受験偏差値を物差しとする序列であり、その序列が日本社会全般の序列と結びついている。
 
巷では「一流企業に入るため、一流大学を卒業しておく必要がある」といった言葉が当たり前のように語られている。「学力こそが、難関校に進学する唯一の資格」という言葉を信じる人はいまだに多い。だが、学力は子供たちの能力を測る公正で平等な物差しといえるのだろうか。
 
それに1つの解答を与えてくれたのは、マイケル・サンデルの『実力も運のうち―能力主義は正義か?』(早川書房)だ。難関大学入学者の多くは、幼いころから恵まれた環境にあり、低学歴の人には「自己責任」が押しつけられている。これはアメリカに固有の事象ではない。多くの点で日本社会にも共通している。裕福な家庭の子供は、塾や家庭教師など多額の教育投資がなされやすい。社会階層が“上位”の親たちは子供に階層を相続させようとする。高学歴な親をもつ子供は幼いころから知的なものに触れる機会が多く、豊富な文化資本を享受している。
 
経済格差が教育格差を広げ、社会全般の分断を広げていることは、多くの人が実感してきたことだ。近年、ネットで流行した「上級国民」や「親ガチャ」という言葉は、不平等で不公正な絶望的な社会の断面を表している。問題は、そうした不平等で不公正な社会のからくりが明らかになったとしても、それを改善させる手立てが取られていないことだ。公正や平等を偽装した競争に駆り立てる受験の仕組みは改善されるどころか、放置ないし強化され続けている。
 
すぐできることとして提案したいのは、ジャーナリストの属性を明らかにすることである。たとえば、『週刊ダイヤモンド』や『東洋経済』などのビジネス雑誌が、大学のランキングを特集するとき、特集に関わった記者や編集者の出身大学や出身地を正直に明記してはどうか。“上位校”の出身者が作るメディアが、結果として“上位校”を優位に表現していれば、格差を強化するバイアスを測る指標となるはずだ(関西でいえば、「関関同立」という言葉を多用するジャーナリストに関関同立の出身者が多いとすれば、すごくシラける)。
 
さらにいえば、出身校だけではなく、ジェンダーや民族も明らかにしてくれると、もっとよい。そんなふうに思うのは、オンライン版コロンビア・ジャーナリズムレビューで「記者の署名を追跡することが重要な理由(Why counting bylines is important)」を読んだからだ。この記事の著者アンドレア・グリムスは、テキサスに拠点を置く雑誌記者たちの人種や性別の属性や居住地を調べている。だれがテキサスとテキサス人の物語を語っているのかを確かめるためだ。
https://www.cjr.org/first_person/why-counting-bylines-is-important.php
 
パブリックな場に自分の言葉を投げかけるジャーナリストは、まず自らの属性を明らかにして、客観性や公正中立を偽装していないことの証しを立ててはどうか。すべての人に属性があり、すべてのコンテンツにバイアスがある。だれもが自らの偏見から逃れられない。不平等で不公正な社会を改善させるのは、そういう身近なことだし、やろうと思えば明日からでもできる。
 
私がかつて務めていたメディア企業には裕福な家庭で育った高学歴な人が多かった印象がある。印象どころではなく、本当に多かった。近年はそうした歪みは近年すこし弱まっているかもしれないが、自分たちは何者かということを明らかにすることから始めるのは、べつに突飛なことではない。むしろ、それを隠蔽することは読者・視聴者に不信感や無用な疑念を生じさせることにつながるはずだ。
(休眠ブログを久しぶりに更新しました)

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2020年12月29日 (火)

2020年に観た映画とドラマ(備忘録)

備忘録としてメモしておきたい。

●映画
『ちむぐりさ』雪国生まれの少女の眼差しを通して本土と沖縄との関係見つめる。観て良かった。
『プリズンサークル』更生とは何か。罪と向き合うとはどういうことか。観ておくべき作品だった。
『はりぼて』議会制民主主義の形骸化を喜劇ふうに暴露して終わり、ではない。テレビドキュメンタリーの快作。
『なぜ君は総理大臣になれないのか』小川淳也議員に長期間密着。こんな国会議員もいる。対象との向き合い方が絶妙。
『ランブル』黒人音楽と考えられている作品のなかに先住民の楽曲や演奏が多いことを教えてくれる。目から鱗。
『パブリック』日本語にないパブリックの意味を公共図書館をめぐるドタバタ劇から学ぶ。市民社会を考える素晴らしい作品。
『行き止まりの世界に生まれて』貧困地域に生まれてしまった子供たちの現実を移民の子が撮影。格差社会の現実を描いた作品。
『ヒルビリー・エレジー』いわゆる貧乏白人の世界から弁護士になり成功した男性の回想録を映画化。日本人が知らないアメリカ。
『コリーニ事件』この事件(小説)によってドイツの法律が改正された衝撃の作品。
『人生フルーツ』晩年をこんなふうに生きられれば、という“しみじみ系”の作品。
『オフィシャル・シークレット』英諜報部の末端職員による内部告発の実話をもとにした作品。ジャーナリスト必見。
『ナイチンゲール』オーストラリアで先住民や女性たちがどのような過酷な人生を強いられたかを告発する勇気ある作品。
『スキャンダル』保守系フォックスTVを舞台にしたセクシュアルハラスメントを実名で描く。なぜ実名で作れるだろう。
『メイキング・オブ・モータウン』R&Bなどの黒人音楽レーベルがビジネスで成功したかが描かれる。
『マイルス・デイヴィス クールの誕生』天才・鬼才といわれる音楽家の人間像に迫る。作品はすごいが人間的にはいやな奴。
『i - 新聞記者ドキュメント』森達也監督が東京新聞の望月記者を追いかける。新聞記者の行動原理や使命感が素直に描かれる。
『三島由紀夫vs東大全共闘』TBSに残っていた映像を映画化。東大全共闘の人たちがすごく魅力的。ただし煙草吸いすぎ。
『シカゴ7裁判』ベトナム反戦運動に参加して起訴された7人市民や学生の法廷劇。正義と政治を考える良作。
『マルモイ ことばあつめ』日帝の支配下にあった朝鮮半島で、辞書を作り言葉を守ろうと奮闘するドラマ。
『愛国者に気をつけろ!鈴木邦男」一水会の元代表の実像に迫るドキュメンタリー。真面目で誠実な人柄にますます惹かれる。
『テネット(TENET)』順行する時間世界と逆行する時間世界をめぐる理解困難な問題作。
『はちどり』平凡な家庭の少女が体験した90年代の韓国ソウルの受験戦争、家父長制、経済成長……などが低い目線で描かれる。
『82年生まれ、キム・ジヨン』おそらく東アジア全域に共通する女性差別をえぐる作品。ベストセラー小説の映画化。
『罪の声』グリコ森永事件をモチーフにした小説の映画化。「城南宮バス停のベンチの裏」が耳に残る。
『男はつらいよ~お帰り 寅さん』満夫が小説家になっていたり、リリーさんが神保町でジャズバーを経営していたり。
『レディ・ジョーカー』2時間ほどの映画で描ききれない作品。渡哲也に物井清三は似合わない。
●2020年に観たドラマ
『プレス 事件と欲望の現場』(PRESS)『ジャーナリズムの道徳的ジレンマ』に通底する話がいくつもありびっくりした。BBC。
『ニュースルーム』(The NEWSROOM)共和党支持を表明するアンカーを中心にしたHBOアメドラ。アーロン・ソーキン作。
『スタートレック:ピカード』(Star Trek: Picard)

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