共同通信社を退職し、龍谷大学に赴任して10年が過ぎようとしている。この間、ずっと不満に思ってきたことを述べたい。不満のひとつは、大学の序列表現。もうひとつはジャーナリストの属性が見えにくいことである。
いわゆる「名門」「一流」と形容される大学がある。日本では「東大」を頂点とする旧帝大があり、私学の“上位校”では「早慶」と「GMARCH(JMARCHとも)」があり、関西では「関関同立」という呼称がある。それらは入試難易度、つまり受験偏差値を物差しとする序列であり、その序列が日本社会全般の序列と結びついている。
巷では「一流企業に入るため、一流大学を卒業しておく必要がある」といった言葉が当たり前のように語られている。「学力こそが、難関校に進学する唯一の資格」という言葉を信じる人はいまだに多い。だが、学力は子供たちの能力を測る公正で平等な物差しといえるのだろうか。
それに1つの解答を与えてくれたのは、マイケル・サンデルの『実力も運のうち―能力主義は正義か?』(早川書房)だ。難関大学入学者の多くは、幼いころから恵まれた環境にあり、低学歴の人には「自己責任」が押しつけられている。これはアメリカに固有の事象ではない。多くの点で日本社会にも共通している。裕福な家庭の子供は、塾や家庭教師など多額の教育投資がなされやすい。社会階層が“上位”の親たちは子供に階層を相続させようとする。高学歴な親をもつ子供は幼いころから知的なものに触れる機会が多く、豊富な文化資本を享受している。
経済格差が教育格差を広げ、社会全般の分断を広げていることは、多くの人が実感してきたことだ。近年、ネットで流行した「上級国民」や「親ガチャ」という言葉は、不平等で不公正な絶望的な社会の断面を表している。問題は、そうした不平等で不公正な社会のからくりが明らかになったとしても、それを改善させる手立てが取られていないことだ。公正や平等を偽装した競争に駆り立てる受験の仕組みは改善されるどころか、放置ないし強化され続けている。
すぐできることとして提案したいのは、ジャーナリストの属性を明らかにすることである。たとえば、『週刊ダイヤモンド』や『東洋経済』などのビジネス雑誌が、大学のランキングを特集するとき、特集に関わった記者や編集者の出身大学や出身地を正直に明記してはどうか。“上位校”の出身者が作るメディアが、結果として“上位校”を優位に表現していれば、格差を強化するバイアスを測る指標となるはずだ(関西でいえば、「関関同立」という言葉を多用するジャーナリストに関関同立の出身者が多いとすれば、すごくシラける)。
さらにいえば、出身校だけではなく、ジェンダーや民族も明らかにしてくれると、もっとよい。そんなふうに思うのは、オンライン版コロンビア・ジャーナリズムレビューで「記者の署名を追跡することが重要な理由(Why counting bylines is important)」を読んだからだ。この記事の著者アンドレア・グリムスは、テキサスに拠点を置く雑誌記者たちの人種や性別の属性や居住地を調べている。だれがテキサスとテキサス人の物語を語っているのかを確かめるためだ。
https://www.cjr.org/first_person/why-counting-bylines-is-important.php
パブリックな場に自分の言葉を投げかけるジャーナリストは、まず自らの属性を明らかにして、客観性や公正中立を偽装していないことの証しを立ててはどうか。すべての人に属性があり、すべてのコンテンツにバイアスがある。だれもが自らの偏見から逃れられない。不平等で不公正な社会を改善させるのは、そういう身近なことだし、やろうと思えば明日からでもできる。
私がかつて務めていたメディア企業には裕福な家庭で育った高学歴な人が多かった印象がある。印象どころではなく、本当に多かった。近年はそうした歪みは近年すこし弱まっているかもしれないが、自分たちは何者かということを明らかにすることから始めるのは、べつに突飛なことではない。むしろ、それを隠蔽することは読者・視聴者に不信感や無用な疑念を生じさせることにつながるはずだ。
(休眠ブログを久しぶりに更新しました)
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